セルジオ越後(セルジオえちご)
(写真右)(写真:中島真)
1945年(7月28日、ブラジル・サンパウロ市生まれ。日系2世。18歳でサンパウロの名門クラブ、コリンチャンスとプロ契約。非凡な個人技と俊足を生かした右ウイングとして活躍し、ブラジル代表候補にも選ばれる。1972年に来日し、藤和不動産サッカー部(現:湘南ベルマーレ)でゲームメーカーとして活躍。1978年より(財)日本サッカー協会公認「さわやかサッカー教室」の認定指導員として全国各地で青少年のサッカー指導にあたる。ユニークな指導法とユーモア溢れる話術で、現在までに1000回以上の教室で延べ60万人以上の人々にサッカーの魅力を伝えてきた。辛辣な内容のユニークな話しぶりにファンも多く、講演やテレビでの解説も好評。2006年に文部科学省生涯スポーツ功労者として表彰される。2013年には「日本におけるサッカーの普及」を評価され外務大臣表彰受賞。現在、HC栃木日光アイスバックスのシニアディレクター、JAFA日本アンプティサッカー協会 スーパーバイザーとしても活動中。
2015年にFIFA会長賞を頂戴した。サッカーの試合を見て、その模様や選手たちのすばらしいプレーを人々に文字で伝える仕事をしてきた、いわばスポーツ記者として何十年か楽しませてもらった私がなぜFIFAから賞を受けたのか、今もってよくは理解できないが、一つ思い当たるとすれば、セルジオ越後だ。ブラジル生まれブラジル育ちのフットボールの「超才人」が1970年代にブラジルに帰りたいと言ったとき、もうしばらく日本にいてほしい、と引き留めた。セルジオが選手を引退した後、積み重ねたサッカーの仕事は、少年の指導にはじまり、テレビ、活字での評論を通じてサッカーへの理解を高め、日本と違うブラジル社会を紹介するなど多岐にわたる。そのセルジオが2014年のブラジルワールドカップに私に同行を誘ってくれたことが、FIFA会長賞につながった。60万人におよぶ少年への直接指導だけでも今日の日本サッカーをつくる基礎になったことを思えば、セルジオこそFIFA会長賞をもらうべき人だったが、彼より歳をとっている私がかわりに受け取ったのだと思っている。2人の話は、そのブラジルから4年後のロシア大会にゆくことからはじまった。
セルジオ:もう、ロシアワールドカップが近づいてきたよ(笑)。行かなくちゃね。ロシアは近いから。ロシアへはブラジルの半分以下の距離で、乗換えなしで行けるから(笑)
ロシアへ賀川さんと一緒に行こうと言ったら、みんな心配しているよ。賀川さんは行けるけど、僕らは大丈夫かって(笑)。ロシアへは必ず行きましょう。誰も破れない最年長取材記録を作りましょう。ロシアへ行ったらたぶん破られない。
賀川:ロシアはブラジルと同じように広いね。なにしろ、僕らの先輩の川本泰三さんが、シベリアで捕虜になったとき、鉄道でバイカル湖のところを走り始めて、半日経ってもまだ湖のそばを走っていたそうで(笑)。それくらい広いと。
セルジオ:ブラジルだってサンパウロ州が日本より広いからね(笑)。
賀川:レシフェ(ブラジル東端の港町。日本対コートジボワールの会場)へ行くのに何百キロもバスに乗ったわけだからね。
セルジオ:あれはまだ近かったほう(笑)。
賀川:(2014年ワールドカップでは)セルジオのおかげで、大西洋岸の、それも赤道近くでアフリカに近い、ヨーロッパに一番近いブラジルに行けたからね。
セルジオ:仕事でも普通はあそこまでは行かない。大抵はリオ、サンパウロまでですね。観光もリオやイグアスの滝まででみんな北の方までは行かないね。
賀川:ワールドカップのおかげでものすごくありがたい経験やったね。砂浜からはるか大西洋を見てね。
セルジオ:ちょっと違うブラジル(笑)。魚は美味しいしね。
賀川:ほんとブラジルへ行って魚料理が美味いとは知らなかった。肉ばかりだと思ってた(笑)。ウルグアイだと肉しかないんでしょ?
セルジオ:そうなんです。アルゼンチンもどちらかと言ったら肉ですね。
賀川:笑い話があって、アルゼンチンで食事していて、犬がいたから肉を落としてやるとフンという顔をして、ジャガイモを落としたらガブッと食べたって(笑)。
セルジオ:なるほど、「また肉か」って(笑)。
賀川:肉は庶民の食べるものと思っている(笑)。
賀川:日本と正反対のような国、ブラジルから来て、もう何年になるの?
セルジオ:44年目に入りました。早いよね。当時はアンカレッジから周ってきたのね。ヨーロッパ経由でも当時のソ連は通れなかったからね。
賀川:北極回りの飛行機でヨーロッパへ行った時代やからね。そうか44年か。あなたの人生の半分以上やね。
セルジオ:もう日本の方が長い。27歳で来て、もう70歳だからはるかにこっちのほうが長い。あっという間です。
賀川:日本語も上手になったし。
セルジオ:おかげさまで。覚えていますよ、サッカー教室で賀川さんに言われたこと。「あなたが子どもに人気があるのがわかった。あなたの日本語は小学生にちょうどいいレベルだ」(笑)。
賀川:そういう意味で言うたわけやないけど(笑)。
セルジオ:子どものサッカーは僕の日本語みたいに、“ひらがな、カタカナ”だけで十分で、“漢字”は後からでいいからと。サッカーは難しく考えない方がいいよと。
賀川:だから、まずサッカーの“ひらがな、カタカナ”を教えて、ひらがなとカタカナを知っていればちゃんとした文章が書けるよと。
セルジオ:高校とかで“漢字”を覚えればいいよと。
賀川:まずボールを扱うことが楽しいということを、あなたがサッカー教室で広めてくれたおかげで、日本サッカーは今いい方向に向かっている感じがする。いろんな紆余曲折はあったけど、やはりサッカーへの入り方はそれだと。
セルジオ:サッカーを見る機会がない時代でしたから。テレビ放送も少ないし、日本リーグの試合も限られた地域だけだったし。子どもたちが目の前で技術を見ることができない時代で、日本サッカーにとってそれは何十年分ものハンデだったと思いますね。止まった絵だけでは全部は分からないのね。やはりテレビで見たり生で見たりしないと。今では北海道から沖縄までチームがあって、大人がサッカーをやって子どもが見られる。テレビをつけたら夜中まで試合を中継しているし。
賀川:考えてみれば、日本サッカーは大正12(1923)年にチョウ・デンというビルマ(現ミャンマー)人が来て、そこで初めて「ボールはここで蹴るんだ、こうやるんだ」と教えてくれた。それまではサッカーのルールブックしかなくて、11人でこんなことをするということは分かっていても、ボールの蹴り方は分からない。神戸一中でも大正12年の頃の先輩連中は「しっかり蹴れ!」というだけで、どうやったらしっかり蹴れるのか分からなかった。そこへチョウ・デンが来て足の甲で蹴るのもあればサイドキックもあると教えてくれた。
セルジオ:ビルマ人? それは意外です。
賀川:2015年の民主化以降、ミャンマーへ行って調べようかというムードもあるんです。そういう人物がいて、最初に広めてくれたと、この間NHKでも放送されました。チョウ・デンはスコットランド人にサッカーを習ったはずです。当時ビルマはインド領でイギリス支配だったのだけれど、インドよりもさらに遠い国へはイングランドの連中は来ない。代わりにアイルランド人とかスコットランド人が外地で稼ごうとやってきていて、ビルマではスコットランド人がショートパスのサッカーを教えたんだと思います。
セルジオ:今でもイングランドよりもスコットランドの方が足技はある。細かいのね。
賀川:そうそう。芝生もスコットランドの方がよかった。イングランドの芝は深くて、ドーンと大きく蹴るサッカーで、スコットランドはわりとつなぐサッカーだった。それが神戸一中に入って、さらに日本代表にも入って、ショートパススタイルになるわけなんですけど、自分で見本を示して教えてくれたのがチョウ・デンさんでした。その後しばらくそういう外国人コーチがいなくて、日本人は自分たち自身で一所懸命にやって、ベルリン・オリンピックでも頑張った。戦後オリンピックが東京へ来るのにサッカーはアジアでも勝てなくて、かっこ悪いから何とかしようと、西ドイツ(当時)へ頼んでクラマーに来てもらった。
セルジオ:クラマーさんに指導を受けた人はみんな、自分で動いて見せる人が多いんです。ヘディングはこうする、トラップはこうすると。それを見ることができる機会が少なかったからね。
賀川:ベルリンの頃も名選手はいたんですが、試合をやってみせることはあっても、説明しながらというのはなかなかできなくてね。
セルジオ:僕も子どものサッカー教室でいろいろ勉強になったのは、変わった技を見せたら、子どもたちは「教えてください」じゃなくて「もう1回見せて」と言うんです。まさに「目」から入るのね。そういう環境だった。今は見る機会が多くなったけどね。
賀川:サッカーを強くしないといけない、走り回らないといけないと言われてきて、そこへクラマーが来てボールテクニックが大事だと言った。ヨーロッパの選手は相手にフェイントをかけて外すときに、「1、2」くらいでやってしまうけど、日本人だと「1、2、3」とかかる。でもブラジル人は「1」だけでやってしまう(笑)とクラマーは言い続けた。セルジオは現役をやめて子どものサッカー教室をやりだして、「1」だけで振り返ってしまう最高の技を見せながら、まずはボールと仲良くなることから教えてくれたわけです。それがものすごく大きかった。チョウ・デンが旧制中学生相手に、クラマーは大人相手に教えたけど、セルジオはまず少年層に、ボールを扱うのはこんなに面白いんだと教えた。ボールはどうやったら上へ上がるのか?こどもは大抵引いて上げるけど、セルジオは「こっちの足で蹴ってこっちに当てたら上がる」と。転がってくるボールはつま先で上げる、横で蹴っても上げる、最後にヒザを地面につけて上げる。それがすごく印象的だった。ボールは体のあらゆるところで触って、あらゆるところで自由になるんだということを教えていたね。
セルジオ:子どもの頃、僕の母親は「サッカーを投げに行くの?」と言っていた。足で蹴るのではなくて、手でやる発想なんですね。僕も違和感はなかったです。野球の山下大輔(元大洋)と仲がよくて、彼はグラブさばきがすごく上手なので、「あなたのグラブさばきは僕の足さばきとそっくりだ」(笑)と言ったら、ブラジル人しか言わない言葉だと言って、彼はそれをすごく気に入ってくれた。