このくにのサッカー

佐々木 則夫 × 賀川 浩

対談風景

対談相手プロフィール

佐々木 則夫(ささき のりお)
(写真:フォート・キシモト)
1958年山形県生まれ。帝京高校で主将としてインターハイ優勝、高校選手権ベスト4。日本高校選抜の主将も務めた。明治大からNTT関東に進み、1986年には同サッカー部が日本サッカーリーグ(JSL)2部に昇格する。引退後は大宮アルディージャの監督、強化普及部長、ユース監督を歴任。2006年にはサッカー日本女子代表コーチとなり、翌年には監督に就任すると、2008年の東アジアサッカー選手権での優勝、北京オリンピックベスト4を経て、2011年のFIFA女子ワールドカップ(ドイツ)で優勝。同年度のFIFA女子世界年間最優秀監督賞を受賞した。ロンドン・オリンピック、2015 FIFA女子ワールドカップではいずれも決勝でアメリカに敗れたが、チームを準優勝に導いた。2016年、リオデジャネイロ・オリンピックアジア最終予選終了後に代表監督を退任。

対談の前に

 佐々木則夫さんはNTT関東の選手兼コーチのときに、チームの技術顧問であった高橋英辰さん(愛称ロクさん)とも交流があり、対談のなかでもプレーヤーが自ら考えることの重要性を強調しているところは、ロクさん同様で、改めてサッカー指導の流れを思ったものだ。ワールドカップの優勝、オリンピックのメダル獲得で日本の女子サッカーは世界のトップを争うようになっているが、各国の進歩も急テンポである。「なでしこ」とともに世界を制した佐々木さんに、女子サッカーのこれまでと未来を聞いた。

対談

帝京は「教えすぎない」

賀川:今回は女子サッカーで世界的に有名になった佐々木さんに、代表監督を退いてちょっと自由の身になられて、いまなら言いたいことも言えるんじゃないかということで、お話を聞かせていただこうということです(笑)。初めにご自身のことをお聞きしたいのですが、幼少の頃に埼玉に移られてそこからサッカーをするようになられたんですか?

佐々木:そうです。父の仕事の関係で山形から東京、東京から埼玉の蕨に来て、小学校4年生ぐらいからですね。校庭にゴールが1組あって、休み時間にボール1個で5対5とか、まだ何のスポーツか全然分からないまま、皆でわーっとやっていました。それがサッカーだったんですね。もともと僕は野球少年だったので、始めは「何やってるの」って感じでした。でも自分も入れてもらってやっていたら結構面白い。僕は足が速かったので、「足が速いと得だな」とか思っていましたね。最近分かったんですけど、ちょうど1968年メキシコ・オリンピックで日本が活躍した頃で「これがサッカーなんだ」と思って見ていたんです。メキシコ・ワールドカップのアステカス・タジアムでプレーしていたペレのシーンを見た時に「すごい選手がいる、これが世界のサッカーなんだ」と思って、そこから野球をやめてサッカーに専念しました。

賀川:埼玉はサッカーどころですからね。高校は東京の帝京に行かれましたが、帝京がサッカーが強いから行こうと?

佐々木:そうですね。中学時代はもっとサッカーをしたかったんですけど、ケガばかりしていてなかなか思うようにはできなかったので。ただ、中学時代に満喫していたら、全国を狙えるようなところを選んだかどうか分かりませんけどね。埼玉は強豪高校が多いので全国大会へ出るのはなかなか難しい。だから「今なら東京の帝京に行った方が全国大会に出る確率が高いだろう。レギュラーを獲得すれば高校選手権に出られるだろう」という選択をしたんです。

賀川:浦和は市内に強い学校がいくつもがあるし、県内にもあるから。

佐々木:浦和南、浦和市立、浦和西。大山(照人)先生が着任して、その頃から徐々に武南も強くなっていました。大山先生から声をかけてもらったんですけど、「僕、帝京に行って、全国で活躍したいんです」って(笑)。

賀川:しかし、帝京の中でレギュラーになるのもなかなか大変でしょう。

佐々木:そうですね。グラウンドが狭いのに120人ぐらい部員がいましたから。特に下の世代には早稲田一男や宮内聡といった選手がいっぱい入ってきましたからね。上が強いと下からもいい選手が入ってくるんですね。逆に、選手権に行けなかったときは弱体の年代になるという構図で、僕が入った年代は弱体の代なんです。

賀川:あんまり強くなかった?

佐々木:はい。選手権を逃した次の年でしたから。

賀川:全国大会は出られたのでしょう?

佐々木:僕が3年生のときに首都圏開催になって、その年には出ています。浦和南と静岡学園が決勝をやった年です。

賀川:それで僕は見ていないんだ。東京まで出かけられなくなったから。

佐々木:準決勝で浦和南と対戦しました。勝てるだけの力は持っていたんですよ。インターハイでは浦和南に勝って優勝していましたから。1−1でPK戦になってしまって。そこで負けてしまったんですけどね。賀川さんは大阪でやっていたときは毎年見られていたのですか?

賀川:ずーっと昔から見に行っていました。東京オリンピックの頃は2年ほど東京に勤務していても、正月は関西に帰って見ていたぐらいでした。JFA現会長の田嶋幸三さんが浦和南で優勝したのが関西開催の最後の年でしたが、それも見ました。ターンしてシュートに持って行ったのをまだよく覚えています。

佐々木:ちょうど僕が1年の時に、帝京が初優勝したんですよ。田嶋さんたちの前の年で、広瀬(龍)さんの時です。だから、僕の下はすごくいいプレーヤーがいっぱい入ったんですよ。早稲田、宮内、金子久、高橋貞洋とかね。彼らをベースにして、僕たち3年生の代は3人ぐらいがレギュラーで、若いチームでインターハイを優勝したのですからそのあとも強いわけです。

賀川:やっぱり、高校の強いチームにいるということもまたひとつの経験ですから……。

佐々木:そうですね。いろんなことが学べますよね。いろんな強豪校、いろんな指導者の方と出会ったりできますから。古沼(貞雄)先生も、帝京に赴任してきてサッカーを知らないのにサッカー部の顧問になって、いろんな先生から教えを受けて名将と呼ばれるようになりました。

賀川:古沼先生とは94年のワールドカップのときに一緒になってね。いろいろ話を聞きました。

佐々木:小沼先生は「教えすぎない」人でした。僕らを指導するときも基本の大事さと、自分たちで工夫すること。教えすぎないのか、知らないのかは分かりませんけど(笑)。だから僕も3年になったときには、書物を結構読みました。『チャナディのサッカー』は高くて買えなかったので、図書館で借りて、戻して、また借りて、とかしましたね。守備の基本などを勉強しました。あの頃は120人いても、監督とキャプテンの二人三脚で全メンバーをコントロールしなければいけない。今だと120人もいればコーチが何人もいるじゃないですか。そんな環境じゃなかったので。すごく勉強させてもらいましたね。

賀川:その頃は上級生が下級生を教えるという習慣はありましたか?

佐々木:ありましたね。厳しくもあり、優しくもあり(笑)。

賀川:学校のスポーツは、上級生が下級生の面倒を見るという習慣がありましたからね。そういう意味ではクラブのサッカーとは別の面白さがあったという気がするんです。教える方も下級生に文句を言う時は、自分の頭の中も整理せないけませんしね。

佐々木:そうですね。上下関係の部分は昔ですから鉄拳制裁もありましたけど、それなりにいろんなことを先輩から学んだり、サポートしてくれたりということもありますからね。鉄拳のところだけが頭に残っているのではなくて、実際にものごとには序列があったり、さまざまな勉強をした重要な3年間ですよね。「サッカーだけやっている」みたいな感じでしたけど、その間にいろんなことを学んだことは今、大人になっても強く感じますよね。

賀川:そこでキャプテンをやるというのはなかなか大変なことですよ。

佐々木:そうですよ。僕一人っ子ですからね。一人っ子の甘えん坊で(笑)。転校が僕を育ててくれたようなところもありますけど、やっぱり根は一人っ子なのでよく自分に務まったなとも思いますね。

賀川:よい仲間も何人かいたわけですね。

佐々木:そうですね。僕の中学はすごく弱体だったんですけど、でも僕が帝京に行くって言ったら3人ついてきて。最初100人を越えるくらい入部してくるんですけど、最後は20人かそこらしか残らないわけですよ。3年生になるとレギュラークラス以外は受験勉強だったりで夏以降は半分抜けます。僕らの年代は下が強いので、残った3年生は10人ぐらいです。その10人の中に僕の中学からの仲間は全員入っていましたからね。みんな辞めないで。

賀川:3年生になって、レギュラーになれなくてもやめないでいるというのもまた強さですよね。

佐々木:本当にそうですよね。

賀川:佐々木さんは、足が速かったんですね。

佐々木:そこそこ速かったですね。でもサッカーのレベルが高くなってくると持久力の方が目立ってきましたね。

賀川:足の速い選手はどちらかと言うと持久力の乏しい傾向があります。

佐々木:僕は今で言うボランチで、中盤に宮内がいたんですね。宮内が展開力を発揮して、僕が相手攻撃の芽を摘む役ですよね。古沼先生は「ボールを取ったら宮内に預けとけ」と。でも僕はミドルパス、ロングパスが得意だったので、チェンジサイドの長いパスとか出していました。細かい華麗なのは宮内で、僕はどちらかというと摘み役。ただ、すごくバランスはよかったと思います。足の速い高橋の前に、右アウトでタッチライン際を巻くようなボールを蹴る練習を常にしていました。

娘が背中を押してくれた

賀川:佐々木さんは女子サッカーの、今や大家であるわけですが、女子サッカーに興味を持たれたのはそもそもいつごろからですか?

佐々木:うちの娘がですね、実は少女時代からサッカーをやっていまして。その少年団の指導者が学校の先生だったんですけど、「縄跳びうまいなぁ」って言って「サッカーやらないか」って導いてくれたんですよ。僕が「サッカーやれ」とか、僕がやっているからとかじゃなくて、小学校の先生にほめられたのがうれしくてサッカーを始めたんです。それで少年団の試合を見に行ったりして。やっぱり5、6年になると男の子の中ではなかなかレギュラーになれないので、そこから逆に僕が「じゃぁ少女チームでやったらどうですか」って先生に言ったら「そうだねぇ、もしよいチームがあったら」と言うことで、隣の町に少女サッカーチームがあったので、そこにうちの娘だけじゃなくて、4、5人行ったんですよ。そうしたら埼玉の県大会で優勝しちゃいました。

賀川:娘さんはそれからずっとサッカーをやっていたのですか。

佐々木:中学はサッカー部がなかったので、柔道部に入りながらクラブチームで週末かじる程度でした。高校は女子サッカー部のある埼玉県立の松山女子へ進んでやっていましたけど、当時の女の子のサッカーなんてまだレベルは低かったですね。

賀川:僕らも神戸FCで女子の部も作ろうとやりだしたら、大人になって始めた子たちは我々老人のチームと試合しても全然相手にならない。急激に角度を変えて動くターンができないんですよね、普通の女の子は。だから「女の子は男のようなターンができないのかな」と思っていたら何年か経って、小学生から上がってきた女の子たちはターンができていて、こっちが置いてきぼりにされたりして(笑)。そのころから女子がだんだん盛んになってきました。代表の監督は2006年からでしたっけ?

佐々木:S級ライセンスで同期だった大橋(浩司)さんが監督だった2005年の春ぐらいに「ノリさん女子のコーチ手伝ってくれないかな」ってお話がありました。それまで数年は大宮アルディージャのユースの監督をやっていたんですけど、ちょうどチームづくりの最後の仕上げの年だったんですね。1年生から見てきた3年生を秋の全国大会になんとか出場させて。それまでアルディージャは全国大会に1回出たことがあるだけで、出てもグループリーグ敗退。何とかしたいということでやっていたので、「もしこの大会が終わった後でも、なでしこのコーチが見つからないのであれば、また声をかけていただければ考えます」と言っていました。そうしたらユースも初めてベスト4にまで進んで。その頃大仁(邦彌)さんが女子委員長をやっていたのかな。それとJヴィレッジで副社長をやっていて、そこで会った時に「お前、(なでしこに)来いよ」と言われて(笑)。「あぁ、あの件ですか、まだ見つかってないんですか」「まだなんだよ」っていうことで、僕もちょっと大宮ユースを教えるにはまだ環境が整わないので、じゃあ女子の方も考えておこうかなという気持ちになりました。僕はその頃NTTの社員で、なかなかプロの指導者でという一歩を踏み出せなかったんですけど、うちの娘も女房も「やりなさいよ」って背中を押してくれたんですよ。「2年間の契約で、女子のコーチなんて安いんだぞ給料」って言っても「いいわよ」なんて言う感じで。娘がね、高校時代のキャンプなんかで僕が指導をすることがあって、それが「すごく評判がよかった」って言うんですよ。「だから女の子の指導はいいんじゃない」と。そういう娘の言葉は、やっぱり女性相手で不安なところに後押しになりますよね。大橋さんにも「大丈夫だよ、ノリさんだったら」って言われて勇気づけられて、思い切ってやろうかなと。NTTも「2年契約で大変だから出向で行けば」と言ってくれたんですけど、その後も下の年代のカテゴリーを見てもらえないかと言われていたこともあって、中等半端だとNTTにも迷惑がかかるので、きっぱり「プロでやります」と決めました。

賀川:NTT関東といえば、高橋ロクさんがおられた頃ですか?

佐々木:高橋ロクさん! 高橋さんには本当にいろんなことを教えてもらいました。関東リーグからJSLの2部に上がる頃、高橋さんが世田谷に住んでいて、僕が埼玉の志木で、一時車で通勤していたんですよ。僕が車で送迎すると志願したんです。なぜかと言うと、車での長い時間にサッカーの話が聞けるからです。

賀川:ロクさん、サッカーの話が好きやからね。

佐々木:ワールドカップの話だとか、いろいろな話を聞きました。本当に一言一言がすごく勉強になるんですよね。古沼先生とかお世話になった指導者からいろいろ学んだことがありますけど、やっぱり僕のベースは高橋さんです。

賀川:ロクさんが大阪に来た時に、「関東リーグを見に行ってるけど、おもしろいよ」と言っていましたね。

佐々木:監督もいたんですけど、練習の7割ぐらいは高橋さんがやってくれたり。

賀川:第1回のアジアユースのときに、ロクさんが監督、僕はマネジャー兼広報ということで一緒にマレーシアへ行ったんです。歳はだいぶ僕より上なんですけど仲良くしてもらって。あれほどサッカーに博識な人はそういないですよ。

佐々木:サッカーに対する姿勢が真面目になったのも高橋さんのおかげです。将来指導者になりたいなんて言っていましたけど、浮ついた感覚でした。プレーヤーで、兼任でコーチもやっていたんですけど、煙草は喫う、酒は飲むで素行が悪かった。それを改めたのは、高橋さんの話を聞かせていただいたからです。そこでまず、煙草をやめました。

賀川:ロクさん自身が根っから真面目人間ですからね。


このページの先頭に戻る