櫻井 嘉人(さくらい よしひと)
(写真:中島真)
1964年生まれ。早稲田大学、名古屋相互銀行(現名古屋銀行)でサッカー部に所属。1996年に独立し、株式会社バンフスポーツを設立して全国でフットサル場経営を展開。その後、Fリーグの創設にともない、名古屋オーシャンズのGMとしてリーグ開幕以来9連覇を達成し、AFCフットサルクラブ選手権でも2011、14、16年の3度の優勝を飾っている。
名古屋駅からあおなみ線に乗り、金城ふ頭駅を降りて、右手に立つテバオーシャンアリーナを見上げれば、初めての人はその立派な姿に驚くことになる。名古屋オーシャンズというFリーグ創設以来連覇を続ける国内最強のフットサルプロチームのホームであり、日本のフットサルのメッカでもある。
1982年に、そのころミニサッカーと称していたフットサルの国際大会から見つめてきた私にも、今のフットサルの隆盛は驚くほど。そのリーダー格、名古屋オーシャンズの櫻井さんとの対談で、発展の苦労と未来への展望を聞いた。
※この対談は2016年3月5日の第21回 全日本フットサル選手権大会1次ラウンド(@グリーンアリーナ神戸)のバルドラール浦安 vs 名古屋オーシャンズ サテライト(2-0で浦安が勝利)の後に行われた。
賀川:今日の試合は堪能しました。面白かった。
櫻井:ありがとうございます。
賀川:オーシャンズはサテライト(※2軍相当)でしたが、相手も特徴を出して全力で戦っていて、非常に見ごたえがありました。これだけ面白いのだから、もっと客を入れないといけないですね。
櫻井:我々も努力しなければと思っています。10年間、本当に努力したんですけども、まだ努力足らずですみません。
賀川:フットサルは、セルジオ越後がサロンフットボールという名前で日本に持ち込んできて、尼崎でやったころからよく見せてもらっていますが、櫻井さんとフットサルの出会いは?
櫻井:早稲田大学でサッカー部に入ったんですが、B型肝炎になってしまいました。まだ若かったので、マネージャーになるのは抵抗があって、サッカー部をやめてしまったんです。その後、体がよくなってから、三菱養和サッカークラブの巣鴨の人工芝のグラウンドで、プレーさせてもらったことがあったんです。私が19歳ぐらいのときですから、もう30年以上前ですね。名古屋から出てきて人工芝のグラウンドもあまり見たこともなかったので、感動したのが、ずっと頭に残っていました。野球場や武道場、テニスコートはいっぱいあっても、サッカーのインフラはあまり整備されていなかったですね。その後、名相銀(名古屋相互銀行:現在の名古屋銀行)のサッカー部で10年ぐらいプレーして、また体をこわしました。
賀川:名相銀でプレーされていたんですね。
櫻井:今度は入院生活も長くて、インターフェロンとかも打たれて、病室の白い天井を見ながら「退院したら好きなことをやりたいな」と思い始めました。もともとは国立競技場に立つような選手になりたいと思ってましたけど、今度はチームを作るということだったり、大学生のころ感動したグラウンドを作りたいな、なんて思い始めました。それと並行して、FIFAのエージェント(代理人)試験が日本で行われたんです。仲のいいサッカー選手から、「櫻井さん、選手のエージェントやってよ」というようなことをよく言われていたこともあって、そういうことをしてみたいなと思って受験して、第1回目に合格したんです。当時、資格をもらうためには20万スイスフラン(約2000万円)ぐらいをスイス銀行にデポジットするというようなルールだったんですが、その時にちょうど人工芝のサッカーグラウンドをつくるような案件が耳に入ったものですから、エージェントはやめて、人工芝代にお金が化けたのが最初のきっかけなんです。その時はフットサルというよりも、とにかくサッカーやミニサッカーでした。
賀川:人工芝のグラウンドを作りたいと。
櫻井:きれいなところでやらせたい、自分もやってみたいっていうのもありましたし、そういう施設を広げていきたいという気持ちがありました。その時点ではフットサルということは頭にあまりなかったんです。
賀川:私たちも人工芝のグラウンドといえば、三菱養和が最初ですね。もっとも人工芝はボールの転がりが速いものですから、年寄りにはしんどかったですけどね(笑)。それは冗談として、人工芝のグラウンドは誰がプレーしてもまず満足できますからね。
櫻井:最初、名古屋で会社をたちあげてスタートしました。東京ではそのころ世田谷に人工芝のフットサル施設ができて、人気が出始めた時期だったんですけれども、名古屋では早すぎました。それでサッカーというよりはミニサッカーの大会をやったり、今でいうフットサルのスペースのような広さに区切って貸し出した方が使ってくれるんじゃないかとか、東京でやっていることの真似をしたりしていました。すると少しずつ認知され始めて、色々な地域から引き合いがあって、名古屋の次は東京に行ったり、横浜、仙台、福岡と、一時はすごくたくさんの施設を経営しました。
賀川:その頃のフットサル場は屋外ですよね。
櫻井:そうです。屋根もなかったですね。20年近く前には、屋外で人工芝だけのようなところでもみんな感動して、雨が降っても使ってくれたんですけど、施設も進化して、お客さんも贅沢になってきて(笑)、屋根ができたりだとか、今度は室内じゃないと入らないとか、冷暖房が入ってないと入らないとかそういう状況になってきているんです。
賀川:そのうちに、フットサルを面白いと思われるようになったわけですね。
櫻井:今日は第21回の全日本選手権ですが、2001年に自分のサポートしたチームが優勝したときに、「本場のフットサルを見てみたいな」という気持ちもあって、それから10回以上ブラジルに行って、いろんなチームや選手を見たり、優勝するとブラジルに行けるというような大会を何回も開いて、優勝チームを連れて向こうで大会に参加させてもらったり、ブラジルで教えてもらってフットサルにのめり込んでいきました。
賀川:世界でも珍しい立派なフットサル専用のアリーナを名古屋に作られましたよね。チームを作るときに一緒に施設のことも考えられたわけですか?
櫻井:私が、というよりは大洋薬品工業というジェネリック医薬品の会社の新谷重樹社長という方のお考えですね。中・高・大と名古屋の南山学園というところでずっとサッカーをやっていらっしゃって、岐阜県の高山市にある工場の社員さんに「サッカーの試合があるから社長も応援に来てください」と言われて見に行ったときに、最初1点取って喜んだんですけども、結局大差で負けて「くそー」と思ったらしいんですね。事業としてはうなぎのぼりでよくなっていた時期だったので、そのときにカッとなったのが「ブラジル人でも連れてきてもっと強くしよう」みたいなことになったらしいんです。「社長がサッカーやろうと言っている」、「サッカーじゃなくてフットサルのほうがいんじゃないの?」という話になった時に、その工場にかかわっていた鹿島建設さんを介して紹介していただきました。名古屋でお会いして1、2分で「居酒屋でしゃべろう」という感じになって居酒屋に連れて行かれて、「フットサルの施設を全国でやっていて、東北、関東、東海にチームを持っている。日本では割合強いチームなんですよ」なんて話をしたら、「スポンサーをしてやる、っていうかプロチームを作ろう」と。そこからは本当に、普通ありえないようなことが色々ととんとん拍子に進みました。「どんなチームにするんだ」とおっしゃるから「プロチームになるんだったらそういう施設もあるといいですね」と、ぽろっと言ってしまったら「どんな施設なんだ」、「体育館で、お客さんも入れて…」、「よし、それもすぐ作ろう」って。嘘のような話なんですけど本当にそんな風に進んだんです。
賀川:私は元々関西のくせに名古屋の月刊グラン(名古屋グランパスの広報誌)で書かせてもらっているぐらいですから名古屋は多少縁がありましてね、トヨタの副社長をやっていた岩崎(正視)さんが大学の1年後輩なんです。名古屋には東京や関西とまた違った感覚をお持ちの方がいると思っていました。名古屋の経営者の感覚ですかね、そのすごい社長さんは、「ええ人を見つけた」って思ったんですね。
櫻井:不動産も名古屋中にいっぱい持っていらっしゃる方なんですけども、ちょうどバブルはじけてから買ったビルがあって、それを売れば税金を引いて40億ぐらいになるだろうということで、そのお金がアリーナになりました。フットサル専用のアリーナと言われましたが、実際に専用にすると採算が合わないんです。普通はそんなことしない会社なんですけど、社長が「どうせ作るなら専用アリーナにしよう。そうしたら世界一になるかもしれない」っていうことで、実際そうなってしまいました。ようやく出来上がったときには感動しました。
賀川:プレーヤーズファーストですよね。国立競技場でもめている日本のお偉いさんよりも、この大洋薬品の社長さんの方がずっとスポーツマインドですよね。名古屋もトヨタのおかげでグランパスができましたけど、元々はなんといっても野球の盛んなところでね。サッカーは私どもの神戸あたりから見るとまだまだだったのが、グランパスが非常に筋のとおったチームになって、それと同じようにフットサルのナンバーワンのチームができて、ナンバーワンの施設があるというのはちょっと不思議なぐらいの話ですよね。
櫻井:今はもう体が動かなくなってできていないですけど、もうちょっと絞ってまたシニアでやりたいなって思っているぐらいサッカーの方が好きなんです。こうやってフットサルの方にどっぷりつかってしまったのは不思議な感じもしますね。