このくにのサッカー

岡田 武史 × 賀川 浩

対談風景

対談相手プロフィール

岡田 武史(おかだ たけし)
(写真右)(写真:中島真)
天王寺高校、早稲田大学、古河電気工業でプレーし、サッカー日本代表として国際Aマッチ24試合に出場。指導者としては、コンサドーレ札幌、横浜F・マリノス、杭州緑城足球倶楽部の監督を歴任。1998年、2010年の2度のワールドカップに日本代表監督としてチームを率い、2010年には1次ラウンド突破を果たす。現在はFC今治運営会社「株式会社今治.夢スポーツ」代表取締役、日本サッカー協会副会長。

対談の前に

 ワールドカップでの実績という点で、岡田武史監督は日本サッカー史のなかでトップにいる。今治で新しい仕事に取り組む、その姿を眺め、久しぶりにゆっくりと話を聞きたいと、四国へ車を走らせた。
 1969年の初対面当時に、まだ中学生であったこの人の、人なつっこい笑顔は変わっていないが、いつもサッカーを考え、日本を考え続けている姿は、誠に頼もしい。いつものことながら、古くからの仲間との語り合いはあっという間に終わってしまったが、日本サッカーの幅広く、着実な進化を感じることができた。

※この対談は、FC今治の2016年度の四国リーグホーム初戦となった4月17日(日)のllamas高知FC戦(@今治市桜井海浜ふれあい広場サッカー場、1-0で勝利)のあとに行われた。

対談

街に根付いていくために

岡田:わざわざ遠方までありがとうございました。

賀川:今日、グラウンドを大勢の人が取り囲んでいるのを見たときに、1959年の第1回アジアユースサッカー選手権大会にマネージャー兼サブコーチとして帯同し、高橋英辰監督のもと、マレーシアで試合をした時のことを思い出しました。グラウンドのまわりに小さいスタンドがあって、そこで日本のユース代表が試合をしました。

岡田:昔はマレーシアあたりに試合に行くと、ピッチの周りに大勢の観客がいて、ボールが出ると、蹴って戻してくれたりしました。

賀川:サッカーがこうして今治という街に根付いていくのを見ると、50年以上前のマレーシアを思い出すとともに、日本のサッカーもここまできたか、という感じですね。愛媛県では旧制松山高等学校が強くて、ぼくも大学の予科のときに試合をしました。

岡田:それ以降だと、南宇和高校の優勝がありましたね。

賀川:愛媛は野球はずっと盛んだったけどね。

岡田:今日も「2000人プロジェクト」と言って、2000人動員して、試合内容も圧倒して勝つ、という目標だったのが、どちらも達成できなくて、がっかりしています。

賀川:この街の人口は?

岡田:16万5000人です。

賀川:バイエルン・ミュンヘンは、150万人くらいの人口で7万人入るわけやけど、それは100年の伝統があるからね。これから50年かけると、この街がどうなるやろね。

岡田:ぼくらは10年後には、1万5000人のスタジアムを一杯にしたいと思っていて、来年には5000人のスタジアムを自前で作ります。JFL、J3対応のスタジアムを3億円ほどで作るんですが、次は7年後に1万5000人の複合型のスタジアムを計画しています。スタジアムを満員にしないと、スポーツビジネスは成り立たないですから、今日も満杯にすることに取り組んだのですが、それができなかったことは悔しいです。

賀川:ドイツだと人口2万人の街に2万人収容のスタジアムがあるからね。

岡田:ホッフェンハイムなんて人口はと少ない(約3万5000人)けど、3万人のスタジアムが一杯になりますよね。信じられないですよね。

同じことをしていては勝てない

賀川:ヨーロッパのサッカーを見ていると、「天賦の才能」ということをいつも考えます。メッシなんか、どうやったらああなるんだろう、と。小さい頃に見つけてきて育てているから、ということはわかるんですが。

岡田:日本代表でも、わからないもんだな、と思う選手はたくさんいますね。本田(圭佑)なんて、最初見たときは「どこまでいけるかな」という感じで、まさかあそこまでいけるとは思わなかったし、長友なんて「この下手くそ」と思っていたのが、いまやインテルのゲームキャプテンですからね。

賀川:やはりそれは、練習の積み重ねですね。努力するのも才能のひとつなんですよね。

岡田:努力というか、考え方なんでしょうね。将来の夢を信じて、「自分は絶対にこうなるんだ、だから今がまんするんだ」ということを考えて、自分を律することができるかどうか。軽く夢を見て、「なれたらいいな」程度だと、つぶれていきますね。「がんばれば日本代表になれる可能性があるぞ」とこっちが言っても、本人がその気にならないとだめですね。本田や長友は、そんな考え方をしっかり持っていましたね。

賀川:岡田さん自身は高校のころに、そういう目標はありましたか。

岡田:ずっとドイツに行ってプロになりたいというのが夢でしたが、高校を卒業するころには、「今の力じゃ無理だ」とわかってきました。日本代表になっても、まだ行きたいと思っていました。34歳になる年に、バイエルン・ミュンヘンが来日(1990年1月のゼロックス・スーパーサッカー)して、日本選抜と国立(競技場)で試合をして1-2で負けました。(カール=ハインツ・)ルンメニゲがまだ一番の若手で(クラウス・)アウゲンターラーがキャプテンでした。僕は選抜のキャプテンをやっていて、いい試合をして、皆ほめてくれましたが、そのときに「オレがどれだけ努力しても、彼らには追い付かない」と思いました。何が上手いということではなく、次元が違うと感じました。それで引退しました。それから、どうすれば彼らに勝てるかをずっと考えました。

賀川:そのころのバイエルンは、ドイツ中からいい選手が集まっていたからね。

岡田:ポンとワンタッチでボールを止められて、スッとかわされて、「どうしようもないな、努力で上手くなってというレベルじゃないな」と感じて、「このままじゃ日本人は絶対に勝てない」と思いましたね。釜本さんだけは、彼らに負けていませんでしたね。
 それから巡り巡って、日本代表の監督になってからも、ずっと考えてきました。(デットマール)クラマーさんにドイツ式の指導を学んだりしてきたけども、ヨーロッパの選手と同じ道を登っていては、彼らには絶対追い抜けないんじゃないか、日本人らしい道を登らないといけないんじゃないか。日本が勝っている競技を見ると、ウルトラCだとか、回転レシーブだとか、新しいものを生み出している競技。10年後に日本が世界で勝つためには何なのか。クリスティアーノ・ロナウドやメッシをつくる努力はしなければいけないけども、そんなに簡単には出てこない。日本人にできることは、ボールの近くで数的優位をつくること。日本人は25メートル以上のパスを蹴るとミスする確率が高いから、25メートル以内のパスをつなぐ。大西鐡之祐さんの言われる「接近・展開・連続」ですね。守ってカウンター、というのも相手によっては使うべきだけども、一人で勝負できる(アリエン・)ロッベンのような選手もそうそう出てこないですからね。でもそんなに簡単に数的優位をつくって崩していけるわけでもない。
 今日の試合でもやっていたんですが、うちの(ボールと)逆のサイドバックは、中盤に入るんです。「サイドバックはなんでサイドにいないといけないんだ」というような新しい発想でトライをしています。いままで定石と言われていたものじゃない、日本独特の日本人の定石をつくって、16歳までにそれを落とし込んで、後は自由にさせる。日本では子どもの間は「楽しめ」と言っておいて、16歳ぐらいになると戦術を教え込むんですけど、その逆をやってみよう、と。そうすると、自分で考えることのできる選手になるのではないかということです。


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