このくにのサッカー

川淵 三郎 × 賀川 浩

対談風景

対談相手プロフィール

川淵 三郎(かわぶち さぶろう)
(写真右)(写真:ヤナガワゴーッ!)
1936年12月3日、大阪府生まれ。三国丘高校、早稲田大学、古河電工サッカー部でプレーし、日本代表として国際Aマッチ26試合出場、8得点。Jリーグ初代チェアマン、第10代日本サッカー協会会長、日本バスケットボール協会会長などを歴任した、日本スポーツ界のリーダー。2008年第5回日本サッカー殿堂入り。

対談の前に

 初代Jリーグのチェアマンとして日本サッカーのプロ化の先頭に立ち、今日のサッカー発展の功労者である川淵三郎さんはサッカーだけでなく日本バスケット界の改革、2020年東京オリンピックの招致にもかかわり、成功を重ねてスポーツ界でその見識と実行力を最も高く評価されるひとり。

対談

子どものころの夢は指揮者

賀川:川淵さんの小学校の生徒の時の夢は?

川淵:僕は小学校3年生の時に終戦ですから、最初は陸軍大将ですね。5年生からは演劇少年で、NHKの放送劇にずっと出てたんです。でもその時も俳優になりたいとか思ったわけではなくて、吉岡たすく先生という、劇作家や児童文学研究家として有名だった先生のもとで、指導を受けていました。高校2年生まで続けました。ラジオに出たり、野球をやったり水泳をしたりいろんなことをしていました。

賀川:芝居を小学校の中でやってたんですか。

川淵:4年生から7年間やったんですよ。当時はNHKラジオの放送劇は生放送でした。まだテレビが無い頃ですからね。中学校になって民間放送ができたころから、収録が増えていきました。

賀川:人前でしゃべるのはその頃から得意だった?

川淵:そのときから慣れてましたね。中之島公会堂で公演したり。舞台もマイクなしでやってましたから、声が大きいのはそのせいじゃないかな。

賀川:なるほど。

川淵:そういう訓練は当時から行き届いたんですね。小学校の頃は海岸で相撲やったり野球やったりしました。当時はやっぱり、野球選手はあこがれですね。阪神タイガース、藤村、別当、土井垣。なりたいっていうより、ブロマイドをおまけでもらったりするのが一番の楽しみだったんですね。

賀川:当時のスターですからね。

川淵:そういえば小学校のときの放送劇は、劇中のBGMや間奏曲なども全部生のオーケストラでやるんですね。そこで指揮者ってかっこいいなと思い、指揮者になりたいという夢を持ちました。でもそのためになんかやったかっていうと何もやってなくてね。そういうことでは一番憧れたのは指揮者かなぁ。

賀川:なるほどね。指揮者はまぁみんな憧れますよね。構えたときに、みんなが集中する感じがね。

川淵:オーケストラ聞く機会なんて、普通の子供にはないわけですが、僕らはNHKの第1スタジオで本番の生の演奏をずっと聞いてました。

日本で一番上手かった先輩

賀川:サッカーでは、早稲田へ入っていきなり1年からレギュラー?

川淵:レギュラーになったんですよね。浪人時代、高校に行ってしょっちゅう後輩とサッカーをしていたから。

賀川:浪人の間も蹴っていた?

川淵:2年も浪人して、早稲田入ってレギュラーになる選手なんてそうはいないんじゃないですか。それぐらいものすごくサッカーをやっていたということでしょう。勉強はせずにね。早稲田は八重樫(茂生)さんとか轡田(隆史)さんとか、そうそうたるメンバーがいましたけど、いきなりセンターフォワードでレギュラーでしたね。その頃からもう賀川さんを存じ上げてるんです。

賀川:見てました。そうでしたね。東西大学1位対抗で東の代表が早稲田、その時1年生で体のしっかりしたのが出てきたということで川本(泰三)さんなんかと話してました。

川淵:川本さんが一所懸命応援してくれてたんですよね。早稲田に入ったことで、そのあと東京オリンピックまで成長することができたという感じがありますね。当時八重樫さんがキャプテンでいましたからね。日本中で一番上手かったのは八重樫さんと関学の李昌碩でした。その下で育ったことが、僕にとっては非常に貴重な体験だったということでしょうね。

賀川:その頃の目標は代表になろうと?

川淵:早稲田に入るころには代表になりたいって思っていましたね。その前は大学に行ってサッカーやるっていうのは、遊びの延長線上でやればいいんで、大学で一番強い大学に入ってサッカー選手として有名になれればいいなと。新聞に「超高校級」なんてずいぶん書かれたから、同じ年代ではまぁ上手かったんだろうなと思うけれども、代表なんてあまり考えてなかったです。日本サッカーもあまり強くなかったし。当時代表は緑色の、胸に「JAPAN」って入ったトレーニングウェアを着てたんですよ。今見たらあまりかっこいいものではないんだけど、あれを着たいなぁ、っていうのが憧れになりましたね。

賀川:あの頃はやっぱりトレーニングウェアを持っているっていうのは代表ぐらいですね。1960年にデットマール・クラマーが来て、彼が練習に出ていくのに横から見ていると、ピシっと筋の入ったトレーニングウェアを着ている。彼の一つのスタイルだったんですよ。

川淵:東京で行われた1958年のアジア大会には、大学1年の時に代表候補として選ばれたんだけど、関学との試合で肉離れして、合宿には行かなかったんです。それがフィリピンに負けたチームです。あの試合を僕は見ていたので、すごく印象深いんです。

賀川:あの時はアジアで一番弱いはずのフィリピンに負けたからね。そこから日本のサッカーの立て直しが始まったんですよね。

川淵:そうですね。その年の暮れから東南アジア遠征が始まるわけですよ。そこで僕らは初めて日本代表に選ばれたんです。フィリピンに負けたことがきっかけで鴘田(ときた)さんとか岩谷さんとかは外して若返りをしていこうっていうんで、僕と渡辺(正)、二宮(寛)あたりが若手の代表で遠征したんですよね。当時はアジアで香港だけがプロがあって、香港が一番強かったんです。香港で第1戦やって負けて、その時は「上手いもんだなぁ」と思いました。初めての国際試合でしたからね。

賀川:香港のサッカーは日本のサッカーみたいに速くはないけれど、ゆっくりキープしてね、それが上手いから。

川淵:テクニックがね。そういうトリッキーなサッカーを見たのが初めてでしてね。引き球とか、日本ではちょっとあんまりお目に掛かれないような。

賀川:選手としては東京オリンピックの同点ゴールが輝かしい記録であるわけですけどね。その前に、大宮かどこかの試合の時に…

川淵:そうそう、ヤシンの。

賀川:ヤシンからゴールを奪ったでしょ。

川淵:早稲田を卒業して、古河に入って結婚式したばかりで。

賀川:そうでしょ。本来ならそこから新婚旅行行くはずのを行かないで…

川淵:行かないで日本代表チームに帰ってきたんですよ。結婚式終わってすぐ汽車で、とりあえず帰ってきて試合出て、新婚旅行行ったんですね。その時に賀川さんが産経に僕の記事を書いてくれたんです。大事にとってありますよ。「新婚初夜はGK片伯部(延弘)と同じ部屋で」とかって。(笑)

賀川:あぁ、片伯部と同室だったから。

川淵:スクラップでちゃんと残ってますよ。川口陸上競技場で試合をして2-2で引き分けたんですよね。で、僕は1点入れて、「『これは新婦に捧げる点だ』と言った」と賀川さんが書いてくれた。

賀川:そこまで書いたかどうか。

川淵:書いた!確かに書いてあった。

賀川:あの話はね、大宮から帰るときに健さん(長沼健)の車に乗せてもらってね。車の中で、「川淵は新婚で新婦をほったらかしてきたんだ」という話を聞いて、試合よりもそっちの話の方が面白いから書いたんです。

川淵:12月8日が結婚式だから、12月9日っていうのをよく覚えています。世界のNo.1の選手に選ばれた(※)ヤシンのゴールを破ったっていうことも思い出深い。あの頃あんな記事はあんまり載らなかったんですよ。枠組みで縁取りした記事は。
※1963年にGKで唯一となるバロンドールを受賞

賀川:囲み記事ですね。

川淵:賀川さんに僕のことを書いていただいたんです。だから賀川さんの顔を見るといつもそれを思い出すんです。


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