石井 幹子(いしい もとこ)
(写真右)(写真:ヤナガワゴーッ!)
東京生まれ。東京芸術大学を卒業後、フィンランド、ドイツの照明設計事務所勤務を経て、石井幹子デザイン事務所を設立。都市照明からライトオブジェや光のパフォーマンスまで、幅広い光の領域を開拓する日本の照明デザイナーの第一人者。日本のみならず、アメリカ、ヨーロッパなど世界で活躍し、オペラや野外能の照明にも取り組む。父はベルリン・オリンピック サッカー日本代表主将の竹内悌三。
1936年のベルリン・オリンピックで日本代表が強豪スウェーデンに逆転勝ちしたことは、日本の戦前のサッカー界のエポックメイキングな大事件だった。その日本代表チームの主将が竹内悌三さん。シベリアに抑留され、異国の地で若くして亡くなった竹内さんの長女で、いま照明という世界で日本の第一人者といえる石井幹子さんにベルリンのヒーローについて語っていただいた。
賀川:ベルリン・オリンピックは第二次大戦前の1936年ですから、私が小学校の時のことです。竹内悌三さんと一緒に代表メンバーだった右近徳太郎さんというのが私の中学校の先輩で、僕は右近さんに直接ボールの蹴り方を教えてもらったこともありました。
ベルリンの先輩というと色々な思い出があって、今日も同席してくれている竹之内響介さん(『ベルリンの奇跡』著者)がベルリンのことを書きたいと言ってきたときには「日本のサッカーにとっての大事件だから、ぜひちゃんと調べて書いてくれ」、ということでいろんな話をしました。出来上がってみて、「そうか、キャプテンの竹内さんの娘さんを主人公にしたか。うまくできたな」と思って喜んでいたんです。
石井:大変光栄でございます。残念ながら、当時はまだ女子サッカーはなかったので、ボールを蹴った経験はございませんが、もっと早くに女子サッカーがあったらよかったのにと思っております。ただ、これは父のご縁だと思いますが、Jリーグの理事をさせていただいたこともございました。
賀川:そうでしたね。
石井:一年間に色々なテレビ局で放映されたJリーグの試合を見て表彰するという審査員も何年かさせていただきまして、当時、今もまぁあんまりよくない所が多いのですが、ナイター照明の設備が悪くてですね、必ず選手の影がX状に出ましてね。Xを描きながら、Xを伴いながら選手が動いていくという映像的にも大変見にくいナイター照明だったんですね。影のあり方で「これはどこの競技場だわ」ってわかるくらい、ひどい照明だったんです。ですから「もっとナイター照明をよくしないといけない」というのを色々なところで申し上げまして、岡野俊一郎先生が父と同じ小石川高校の後輩でいらしたということもあって何度か対談をさせていただいたり、ご講演をお願いしたりしたこともございました。岡野先生がおっしゃるには父の竹内悌三のチームが日本選手でナイターを経験した初めてのチームじゃないかって。
賀川:そうですね、ベルリンの帰りにスイスのチューリッヒで試合をしたんですよ。
石井:そうなんですね。グラスホッパーというチームと試合をして16-0で負けた、と。そのとき初めて日本の選手がナイターを?
賀川:そのときが初めてでしょうね。
石井:そのときの照明って一体どんなのだっただろうな、なんて想像もしたんですよ。おそらくプリミティブな照明でしょうね。夜に試合ができるって大変驚いたということらしいんですが、初めてのナイターのせいであんなに大差で負けたんじゃないか、というふうに岡野さんは言っておられました(笑)。父がその後ヨーロッパでいろんな試合を見て、それをサッカー協会の……。
賀川:ええ、機関誌にずっと載せておられましたね。
石井:そうですよね。それを東大の浅見(俊雄)先生が覚えてらして、コピーしていただいたものを、今も大事にしております。
賀川:あれはもう何度も読ませていただきました。竹腰重丸さんも残ってあちらこちら回っておられたし、竹内さんはイングランドのプロの試合なんかもご覧になっていたんです。イングランドのプロと言っても試合によっては「それほど感心するすべきものもない」という意見も書いておられました。ベルリンの一人ひとりが自分のサッカーを自分で切り開いた先輩たちですが、あの頃はテキストもあまりない頃で、我々にも非常に参考になったんですよ。
石井:竹之内さんの本を拝見してびっくりしましたけど、日本ではそれまで、キーパーは、試合のときにぼこぼこにやられていたのに、そういうことをしてはいけないということがベルリンに行って初めてわかったんですね(笑)。
賀川:そうなんです(笑)。それまではね、日本ではゴールキーパーはパンチングに行くと横からぶつかられたり、足を蹴られたりしていましてね。早稲田のゴールキーパーがあの時のレギュラーだったんですが、向こうに着いて、ドイツで練習試合をやってみるとゴールキーパーにチャージしてはいけないということで、それがゴールキーパーの大活躍のもとになるんです。最も活躍した選手の中にゴールキーパーが3名入っているんですよね。ゴールキーパーの体に相手が触れないから自分の実力が発揮できたんでしょうね。
石井:しかし、本を読んでサッカーをみんなで勉強したというのは大変なことだったでしょうね。
賀川:そうですよね。その前は慶應でも『フスバル』というドイツのオットー・ネルツが書いた膨大なテキストを翻訳して、それは慶應のサッカー部のバイブルでテキストですね。そういうふうにみんな自分で勉強したんですね。あの頃は外国の本を読んで自分のものにするというのも一つの創作みたいなものですからね。
石井:本当にそうですね。本を読んでイメージを膨らませて、「こうでもない、ああでもない」と言っていろいろ考えながらやられていたんでしょうね。
賀川:東大が先に始めて、旧制高校から良い選手がどんどん入って来るという供給源があったものですから盛んになって、その後早稲田が上がってきて、戦前の、ベルリンが終わってから戦争が始まるまでは慶應が少し台頭する、そういう形で東大、早稲田、慶應と関東は強くなったんですね。関西はその頃あまり強くなくて、関西学院と神戸大がたまに関東のチームと張り合ったぐらいであとは歯が立たなかったんです。そういう先輩たちの話は、まぁ何を聞いてもベルリンになるんですよ(笑)
石井:当時は土埃でもうもうとした、ひどいサッカー場でみなさん泥まみれになってやっていらしたわけですよね。
賀川:特に関東はね、関東ローム層で冬に風が吹いたら土煙がわぁっと舞い上がるグラウンドでしたからね。それでもまぁ曲がりなりにも、今の国立競技場、もとの明治神宮の競技場は一応芝が張ってあったんです。
石井:わたくしが見た記憶だと、はげちょろけと言いますか…
賀川:もうはげちょろけですよね(笑)。
石井:今のサッカー場は恵まれていますよね。
賀川:ベルリンの先輩が、今の選手がボールをちゃんと止められずにはじくのを見たら「なんでこんないい条件のグラウンドでボールをはじくんだ」って文句言うだろうと思いますけどね。本当に悪い条件の中で自分たちで工夫して、あるレベルまで達してベルリンへ行って、練習試合では普通のクラブチームに全然歯が立たなくて負けていたんですけど、大一番の対スウェーデン戦で逆転勝ちという好勝負が残るわけなんです。それは自分の持っているものを全部出しきったということらしいんですね。
石井:それと、はるばる海を渡って大陸を汽車で横断して行ったという大変さで意気込みも違っていたでしょうね。
賀川:ええ、シベリア鉄道で何日もかかって。イルクーツクのバイカル湖のところを半日走っても湖のところをまだ走っていて、後で地図を見たらほんのちょっとしか進んでいなくて「ロシアって広い国やなぁっていうのがわかった」という笑い話がありましたけどね。
石井:竹之内さんの本の中でも、汽車が停車したときにみんなたまりかねて降りてボールを蹴ったという描写もありましたけど、目に浮かぶようですね。
賀川:随分余裕を持って行きましたから、向こうに着いて1か月近く時間がありました。それで練習試合をみっちりやって、センターバックが下がるサードバックシステムという新しいヨーロッパのシステムを取り入れた。関東の大学リーグではすでにやっているチームもあったんですけど、あのときに本物のサードバックシステムのサッカーを見て、「これをやらないといくらでも点を取られる」ということになった。東大のセンターバックの種田孝一さんはサードバックシステムのセンターバックに適任の方でしたから、新しい守り方も成功したんですね。
石井:しかし、それをぱっと切り替えられたというのは大変なことですよね。
賀川:みんな自分で工夫してやっているから「あぁこれか」ということで、すぐわかるわけですよね。元々、早稲田、慶應にはそれぞれ、東大にも手島さんというセンターフォワードの強くて上手い人がいましたから、それにマークをつける(サードバックシステムになる)というのが一つの形になっていたんですね。
石井:そういうのを吸収されて、皆さん帰国されて、ただそのあとすぐ戦争になってしまうので、サッカーの体験は活かされなかったんでしょうか。
賀川:戦後はベルリンの先輩に追いつけ追い越せということでやっていて、1954年ぐらいの試合で初めてベルリンに追いついたとか新聞に載ったりしましたね。それぐらいベルリンというのは一つの目標だったんですよ。私はその中でも川本泰三という早稲田の名選手とはサッカーだけではなくて魚釣りまで一緒に行ったりしました。山の中を歩きながらベルリンの話を聞いていましたので、ベルリンの先輩たち一人ひとりのことが当たり前のように頭に入ったりしておりました。竹内さんはモクさんというあだ名だったそうですね。フルバックと言えばどちらかというと防ぐ方ですから、がんばるタイプの選手が多いんですけども、モクさんは非常にスマートで頭脳的な上手なフルバックだったそうです。キャプテンをされるだけあって性格は几帳面だったと聞いています。
石井:几帳面というのは私も聞いておりまして、父が残した手帳があるんですが、そこに小さい細かい字でびっしり書いてあってですね、それを見た時は「あぁこういう性格の人だったのかなぁ」と思いましたね。
賀川:そうですか。モクさんーお父さまの結婚式は東京会館で。
石井:1937年にたいへん盛大な式を。
賀川:川本泰三さんは「ベルリンのときのブレザーを着て出席して、えらい立派な披露宴でごちそうを食べた」と言っていましたけどね。
石井:そうでいらっしゃいましたか。父と母はお見合いで結婚したんですけども、父は一目で気に入ってしまったらしいんです。母の方は女学校を出て初めてのお見合いだったので、相手に「ぜひ」と言われたらお断りしては失礼では、ということで(笑)。母自身もたいへん良縁だと思ったらしいんです。帝大を出てスポーツマンで、たいへん魅力的で、それですぐ結婚して、わたくしが翌年生まれました。
賀川:僕は残念ながらお父様にはとうとうお目にかからずじまいでした。その頃はまだ子どもでしたが、戦後に誰がシベリアから帰って来ただとか、右近さんがブーゲンビルで戦病死されたとか、いろいろ話が入ってきた中で、キャプテンの竹内さんはシベリアで亡くなったとうかがったのを覚えています。
石井:亡くなってから4年ほどたってから知らされました。
賀川:あのころの先輩たちはサッカーの情報が少ない中で、ものすごく自分たちで工夫された。竹内さん自身もベルリン大会のあと40日ぐらいヨーロッパにおられたのかな?色々見て帰られて、あと協会の仕事も熱心にやっておられたんですよね。
石井:小さい頃、日曜日に母と試合を見に行ったのは記憶にございます。弟が二人おりますが、男の子が生まれたら「これはもうサッカーを仕込むんだ」と大変楽しみにして、男の子はサッカーを仕込んでスパルタ教育と、女の子は大事に甘やかして育てるという大変偏見に満ちた教育で(笑)。たいへんかわいがられていた記憶はございます。
賀川:ご兄弟はサッカーを?
石井:二人とも(東京教育大)附属でサッカーをやっておりました。中学、高校とやっていて、二人とも国体に出たりいたしましたが、サッカーは好きではなかったのか才能がなかったのか大学ではいたしませんでしたけども。