このくにのサッカー

黒田 和生 × 加藤 寛 × 賀川 浩

鼎談風景

鼎談相手プロフィール

黒田 和生(くろだ かずお)
(写真中)(写真:中島真)
1949年、岡山県生まれ。東京教育大卒業後、神戸FCコーチ就任。84年、滝川第二高監督就任。87年、全国高校サッカー選手権初出場。2005年、全日本ユース選手権優勝。07年、ヴィッセル神戸普及育成事業本部長就任。2009年からはユース(U-18)監督も兼任。12年に台湾へ渡り、ユース育成統括/U-13・18代表監督を歴任、現在はA代表監督。

加藤 寛(かとう ひろし)
(写真右)
1951年、岡山県生まれ。大阪体育大卒業後、神戸FCコーチ就任。95年、ヴィッセル神戸に移籍し、ユース監督、スクールマスター、普及部長、ホームタウン事業部担当部長、トップチーム監督を歴任。現在は神戸親和女子大学教授、同校サッカー部監督、日本クラブユースサッカー連盟会長、神戸市サッカー協会副会長などをつとめる。

対談の前に

 1970年、日本初の法人格市民スポーツクラブ「神戸フットボールクラブ(神戸FC)」が誕生した。クラブのスタート時に東京教育大(現・筑波大学)を卒業し、コーチとなった黒田和生さんは、14年後に移った滝川二高で同校を全国有数の強豪校に仕上げた。高校を離れてからはヴィッセル神戸の育成世代を指導し、その後日本サッカー協会(JFA)から台湾に派遣されて、現在はアジアのサッカーのレベルアップにつとめている。
 加藤寛さんは神戸FCの創設者・加藤正信さんの次男で、父親のサッカー熱の影響で、デットマール・クラマーが主任インストラクターをつとめた第1回FIFAコーチング・スクールの助手として雑務をこなしながら、クラマーの指導に接する貴重な経験を積んで、神戸FCのコーチ、ヴィッセル神戸の育成からトップチームの監督までを引き受けた。
 神戸で旗をあげたクラブで修業を積み、生涯をサッカーに捧げる2人の語りを楽しんでいただきたい。

対談

「街のクラブ」で学んだこと

黒田:僕が神戸FCに就職を決めたのが1970年だから、もう40年以上ですね。

賀川:加藤正信先生と「コーチとしての教育を受けたプロのコーチが必要だ。来てもらうには高校の教師の給与程度は払わなければいかん。そのためには、就職してもらう母体の神戸FCそのものが法人化していないといけない」ということになって、そこからは加藤先生得意の早業で法人格を取ることになったんです。あなたに来てもらうために法人格をとったわけやね(笑)。

黒田:その発想はいつごろからあったんですか。

賀川:日本サッカー協会の会長にもなった藤田静夫さんたちが「京都サッカー友の会」をスタートさせたものを真似て、東京オリンピックの前年の1963年に「兵庫サッカー友の会」というのをつくりました。JFAの副会長だった玉井さんはじめ、神戸のサッカーの有力者が集まったんです。

加藤:友の会には5つの目標がありましたが、あれはどなたが考えられたのですか。

賀川:それは加藤正信先生ですよ。

加藤:まずは少年サッカーの普及、誰でも入れるクラブをつくる、国際試合のできるサッカー場をつくる、いたるところに芝生のサッカー場をつくる、そしてサッカー王国神戸・兵庫を復活する。

賀川:正信先生のいちばんの目標はサッカー王国神戸の復活でした。「自分たちが選手の頃は神戸が強かったからそれを再現したい」と。5つの目標は日本全国で通用するものだったから広がったんです。メンバーに朝日新聞の大谷四郎、毎日の岩谷俊夫、産経の賀川浩がいて、クラブが出来たということが大きく新聞に載ったから影響力はあった。

加藤:私の父のやり続ける力もあったと思うのですが、私は父の周りに大谷さんや賀川さん、岩谷さんという世界のサッカーの情報を知っておられる方がいたということ、海外からサッカーを取り入れた神戸という土地に育った、神戸一中の優秀な人たちが揃ったということが、すごいなと思っています。

賀川:やはり神戸ということでしょうね。戦前から外国人の居留地にグラウンドがあって、それは戦時中も畑として耕されることもなく残っていたわけです。

黒田:私は学生のときに神戸でサッカースクールがあるという情報は聞いていて、関心はありました。いろいろな経緯があって来てみると、「こんなサッカーを好きな人たちがよく集まっているな、えらいところへ来たな」と思いましたね。「ここにいていいのか?」と、ちょっとノイローゼになりかけた。

賀川:あなたが最初に来たときに、「私は岡山でも、東京の大学でも何事も遅くて牛と言われていた。でも牛はゆっくりでも歩みを止めないから、そのうちになんとかします」と言うてたね。

黒田:そんなこと、言ったかな(笑)。

賀川:なんとかどころか、大コーチになっちゃった(笑)。大谷さんがいろいろ世話してくれてましたね。四郎さんはもともと名選手でもあったけども、サッカーの理屈に筋が通っていたからね。岩谷くんが「理念とか理屈は大谷さんに任せときましょ」と言ってた(笑)。「それを実現する仕事は僕らがやればいい」と。

黒田:筋が通ってましたね。

加藤:大谷さんはクラブユース発足時にJFAで大喧嘩したこともありましたね。神戸FCの理事会でも夜遅くまで喧々諤々と議論されていました。

黒田:正信先生は実際家で自分で進めていくでしょ、そこで四郎さんの理想論が出てきて衝突するわけですよ。

加藤:プロ化の気配もなかった頃でしたが、先ほどの5つの目標は、今でも革新的ですよ。なんであの発想をあの時代に皆さんが持てたのか、ずっと不思議で仕方ない。

賀川:僕ら3人は新聞社で世界の情報も入ってくるので、外国のクラブはどうだとかいう話はよくしていましたね。それと正信先生自身が、神戸一中でKR&ACとしょっちゅう試合をしていて、外国人スポーツクラブを見ていたから、それが頭の中にあったでしょうね。あの頃は、試合が終わったあとに紅茶を出してくれたんですよ。それで、「ああ、これがクラブというもんなんやな……」とおぼろげながらに思っていましたね。

黒田:僕は神戸FCで13年指導経験を積んで学校(滝川二高)に出てしまいましたが、いちばん感謝しているのは、少年の指導からスタートできたことなんです。それと25歳のときに、ドイツやイングランドに1カ月ほど海外研修に行かせてもらったこと。お金もかかったけど、行くにはJFAのA級コーチのライセンスも必要で、大学を卒業するときに「取ってこい」と言って行かせてくれた神戸FCのおかげで資格もあった。海外に行ってみると、大谷さんや賀川さんのおっしゃっている通りで、「すごいな!」と刺激をうけた。卒業前の1カ月、「なんでこんなときに資格を取りに行かされるんだ」と思いながら検見川に缶詰めになって。大谷さんが平木隆三さんに「黒田を頼むぞ」と言ってくださっていたのは後から聞きました。そんなライセンス制度や年齢制をつくって、日本の協会を動かしてきた人たちが身近にいたわけですね。

賀川:大谷さんが「世界の流れはこうなんだ」とアイデアを出すと、正信先生が東京に行って一席ぶってくるわけやね。それでJFAも少年の指導に目を向けるようになった。正信先生の実行力と大谷四郎の理論やね、これが両方うまくいったから。

加藤:父が事務局長をしていて、ひとりで何もかもやっていたのを、「組織にしてクラブ員がそれぞれの年代のことを運営できるような組織にしましょう」ということになった時に、なかなか父は理解できなかったときがあったみたいでね(笑)。そのあと大谷さんが事務局長になられて組織化ができた。

賀川:最初は加藤先生みたいな人が一人でやらなければ成り立たないわけで、それを大谷さんが「みんなで運営するクラブにしよう!」と。神戸FCのそういう流れを見ると、日本のサッカーの歴史の流れと同じだと思いますね。

加藤:親父にとっても幸せな人生だったと思いますね。

「やる」と「やらされる」の違い

黒田:加藤さんはクラブを存続させるために何にいちばん苦労した?

加藤:今も街のクラブが一番苦労するのは、経済的な面ですね。われわれコーチを雇ってもらって、生活費を払ってもらう。その費用は誰が払うのかといえばメンバーシップで会員が負担するということは大原則なんですが、最初に黒田さんが来られるときに、賛助会員としてアシックスとモンブランと日本触媒といったところからお金をもらっていた。今で言うスポンサーシップですね。それを最初からやっていたのは、今から思えばすごいことです。サッカースクールも、昔は神戸少年サッカースクールしかなかったですから、神戸高校のグラウンドに、西は姫路、東は大阪から生徒が集まってきていた。ところがそういったスクールが増えてきて、いまや六甲アイランドの中だけでも5つか6つのスクールがあるんです。ペルージャ(イタリア)のサッカースクールまである。誰でもサッカーをできるようになった環境はすばらしいと思うんですが、神戸FCの財政基盤である会費収入は減少する。それで私は、こちらから出向いていくスクールをクラブの理事会に提案しました。

賀川:指導者を自分たちで持っていたという強みが大きかったということやね。

加藤:その後、1995年の震災のときにヴィッセルに移って、普及と育成の組織づくりをさせていただいたのは、僕には良い勉強になりました。震災はかなり厳しかったですね。練習できるグラウンドがなくなったし、交通の便は遮断されたし……。

賀川:磯上は廃材置き場になってしまったしね。

加藤:その直前まで私は事務局長をしていたんですけども、幼稚園児から80代まで会員が1500人ぐらいいたのが、震災で多分半分ぐらいに減っちゃったんですよね。それがいちばん厳しかったですね。

黒田:僕の加藤君のイメージはね、戦ってるイメージね。中体連、高体連といつも戦っていたね。

加藤:そうですかね(笑)。でも神戸の場合は学校の先生の中にもクラブの理解者がいたということがすごく心強かったですね。

黒田:いたけど大半はアンチなんだから。

加藤:でも、Jリーグが始まって世の中が180度変わりましたよ。

黒田:それはわかるけど、そうなるまでが──という話だよ。少年の指導者はみんな一所懸命、子供のためにやっているけど、中学生、高校生年代の先生になると、「なんで地域のサッカークラブなんかつくるんだ?」って時代だったね。

加藤:日本サッカー協会が財団法人化するときに、大谷さんや平木さんたちが定款の原案をつくられたと思うんですけど、その中で登録を身分制度から年齢制度に変えた。世界の基準に合わせましょうということで、学校のチーム以外の地域のクラブが協会に登録して試合をすることができる道が初めて拓かれたわけですよ。

賀川:それまでサッカーはね、大学、高校、社会人というように身分で決めていた。それを「スポーツは社会的身分でするものではない」と。成長度に応じて体の大きさや強さは違ってくるわけだから年齢別なんだ、ということでヨーロッパの年齢別という考え方を取り入れた。少なくとも神戸FCが日本における先鞭をつけたのは確か。

黒田:登録はできたけど、神戸FC青年部は試合する場所がなかった。

加藤:それは大谷さんもずいぶんご苦労されていました。

黒田:市レベルでは受け入れてもらっても、県、関西、全国へは出ていけない時代だったからね。子供たちもよく続けた。

加藤:高校の大会には出られなくても、社会人の大会には出させていただいて、彼らはひじょうにがんばったと思いますね。

黒田:神戸FCの週に1回か2回の少ない練習の中で、みんなよくレベルを上げたよね。

加藤:それが良かったんじゃないですかね。

賀川:「サッカーしたい! したい!」と思って来るからね。やらされているという感じではなかったからね。

加藤:そこがいちばん良かったと思いますね。

黒田:そのときから「やる」のと「やらされている」の違いはわかっていた?

加藤:うーん、ちょっとは考えていましたね。

黒田:最近わかったんだけど、昔はそこまで気がつかなかった。

加藤:大谷さんからそういうことをよく言われていて。

賀川:それは大谷さんの持論でね、「指導者はやる気になってもらうように選手を導いていくもの。結局自分がやらなならんのや」と。「こうだ、ああだ」と型を教えてみても、それを反復練習するのは自分ですからね。言われて反復練習するのでなくて、自分から反復練習しようと思ったときに上達する。

加藤:それは神戸一中の「自重自治」のような、大谷さんや賀川さんが若いときに身につけた精神がサッカーにも現れているんでしょうね。

賀川:それはあると思います。自分たちで勉強して、自分たちでやる。デットマール・クラマーみたいな優秀な指導者が5人も6人も日本にいたわけやないんやから(笑)、自分たちで探っていかなければいけない時代でしたね。

加藤:今は、環境が整いすぎたというか(笑)。

黒田:一時、教えるのが仕事だから教える、選手も教えられるのがあたりまえになって、ちょっと停滞した時期がありましたね。

賀川:このごろはコーチの皆さんも「選手にやらせるんではなくて、選手がやるんだ」というふうになってきている気はするんですけどね。それと、僕らがサッカーをはじめた昔はサッカーはラグビーと同じように走り回る激しい競技だ、と思われていたけども、ボールを扱う楽しみを味わうところから神戸FCはスタートしたから、その楽しみを知った連中が「年を取ってもやろうか」ということになるんですよ。初めから「走ることだけでしんどい競技や」という印象で始めたら、長続きしないですよね。それは大事なことやと四郎さんは言っていましたね。「楽しい」ということからやらないとね。

加藤:日本の街のクラブにそういう考え方をもう1回ちゃんと伝えるべきやと思うんですよ。私は日本クラブユースサッカー連盟の会長をしていますけど、Jリーグのクラブだけでなく、街のクラブにも、それぞれのクラブの想いとか考え方があって、その理念に従って、自分たちのクラブで考えたサッカーのスタイルが少年からおじいちゃんまで揃うようにする。そしてちゃんと法人化したクラブになればもう少し日本はヨーロッパに近づけるのかな、と考えています。最近、子供からお年寄りまで、レベルにあわせてスポーツを楽しめるような環境が日本の中に生まれてきました。上手な子はプロの世界とか海外にどんどん出ていけばいいし、そうでない普通の子は、ずっとそのクラブで楽しめるようなスタイルがもっとあればいいなと思います。

「日本の真似だけじゃだめだよ」

賀川:台湾のサッカーを見て、何を感じますか?

黒田:台湾は40年前の日本と同じですね。我々がスクールを始めた、日本リーグができるころの様子と似ている。能力もあるし、意欲もある、お金はないけど選手は素直ですごく向上心がある。だけど40代、50代のコーチ連中にまったく夢がない。「どうせナンバーワンスポーツにはなれないし、プロはできないし、オリンピックにも行けないし」と最初から諦めているんです。かつての日本には夢があったじゃないですか。乏しい環境だけど「いつかワールドカップ行こう」とか「オリンピックで勝とう」とか。そういう夢さえもないけども、それを語ると何人かが共鳴しだしたというのが現状ですね。そんな状況なので、さきほどの神戸FCの理念──場所を整える、強いチームをつくる、その中にスターがいる、でも数を絶やさないようにみんなが楽しむ、ということをやっています。

加藤:指導者養成は?

黒田:一所懸命やっているよ。そこ、命だね!

賀川:なんやかんや言っても、人をつくらないかんわけでね。

黒田:神戸FCの初期は、サッカーを広めて、強いチームを作って、いろいろなことを同時にやっていましたよね。それから30年、40年かかって今の姿になったのだから、そうなるように辛抱しないと。

賀川:台湾でどういう組織をつくったことで急速に伸びたとか、「まだこういうところが足りないな」ということはありますか? 日本のあとをついてくる台湾を見るのは、日本の後進地域へのヒントにもなるでしょうからね。

黒田:基本的には日本に憧れて、日本のやり方を全部真似して、という意識がある。だけど「日本の真似だけじゃだめだよ」と言いたいときもある。ちょっとヨーロッパも見たほうがいいよとか。日本だってかつてはアジア1位だったけど、すべて正しいなんていうことはないから。

賀川:日本は今、アジアの雛型になっているわけですね。

黒田:日本だって昔、ドイツに行ったりしましたね。台湾にもそういう人がもっと出てこないと。今の悩みは、場所がないこと。学校のグラウンドを整備しようともしないし、ゴールがないところもある。学校の部活がない。文武両道で放課後は体を動かしましょうというのは日本ぐらいでね。校長先生がサッカー好きだったらサッカー部もあるけど、ない学校が圧倒的に多い。

加藤:ということは昔の東京教育大じゃないけど、先生を養成するカリキュラムの中にサッカーやスポーツが入ってこないと。

黒田:そこも変えていかないといけないけど、やっぱり役所は遅い。でも今は政府からのお金しかあてにできない。

賀川:トップチームの入場料収入とか、スポンサーをとれるような仕組みがないとサッカーの経済というのは動かないからね。日本も長いことそれで苦しんだわけですけど。

黒田:強い代表チームなら応援しようという気が生まれる。弱いままなら誰も相手にしてくれない。

賀川:台湾は隣に日本と韓国があるわけだから、そんなに簡単にワールドカップやオリンピックに行くというわけにはいかないから難しいよね。

黒田:去年、初めて代表チームで有料試合をやった。これまでは「やってもお客さんが来ない、後で税金や経理の決算がめんどくさいからやめておこう」といつもマイナス思考だった。

加藤:クラマーさんが日本へ来たころのような。

賀川:何十年か前の日本みたいなもんや。

黒田:ベトナムとの試合で、チケットが日本円で200円程度でやってみたら、2万人入った。そうしたらそのうちの8000人はベトナム人で(笑)。スタンドの半分はベトナムのユニフォームで真っ赤。ベトナム人が出稼ぎに来ているんだね。

賀川:台湾の方が経済がいいから。ドイツにトルコ人が多いようにね。それも盛んになるひとつのきっかけです。自分の代表チームが隣の国と試合をするということになると人気は出るでしょう。

黒田:次は中近東のチームとも試合をするようになってきたから、ちょっと目が外に向きかけている。

賀川:サッカーというのは、こんなにいろんな国とつきあえるんだ、という楽しさが出てきますよね。

黒田:そう、東アジアにしか目が向いてなかったけど、その向こうにはワールドカップがあるんだ、というのが今ちょっと見えているのかなっていう感じが面白い。

あれがサッカーの楽しさの「原点」

賀川:たくさんの人で支えてやって来たけども、そのなかから黒田先生みたいな指導者が出て来たというのは神戸のサッカー仲間にとっての励みのひとつでもあるよね。

黒田:そんなことを言っていただいたらすごく感激なんですけど、神戸FCに恥をかかせないようにする、その一心ですね。

加藤:大谷さんや賀川さんの教えを受けた黒田さんが滝二で指導した子が、選手にしても指導者にしても、たくさん全国で活躍している。本当にすごいなと思ってます。私が大学の仕事を引き受けたときに最初に考えたのが、女子のサッカーで「将来指導者になりたい」という選手を育てたいということでした。そして、黒田さんのチームのように、ベンチにも入れない子もみんな一所懸命応援しているチーム、クラブが目標でした。

黒田:いずれリタイアするんだから、サッカーとかかわり続けるには審判かコーチかそこらへんしかないわけですよ。だけど、いちばんいいのはコーチじゃないかな、という思いはある。それは滝二育ちというよりも、神戸FC育ちと言ったほうがいいぐらいだと自分では思っています。

加藤:うちの娘(フットサル日本女子代表候補の加藤正美)がお世話になっているアルコイリス神戸という女子のフットサルのクラブの代表で監督をやっている小屋幸栄さんも滝二出身で、審判としても活躍している。

黒田:いろんな方面でがんばってくれるのはうれしいね。

賀川:黒田先生が神戸FCを出て滝二に行って、高校という日本サッカー特有のひじょうに強いインパクトのあるところで全国優勝するチームをつくったことは大きいことですね。これはひそかに、神戸FCのひとつの成功だと、間接的にはだよ(笑)。もちろん個人的に腕がなかったら成り立たんのやけどね、そういうものを生み出す素地にはなったなと思ってる。

黒田:腕はないけど(笑)教えを守りながら。

加藤:その教え、クラブの理念、指導の哲学とか、そういうものがないとだめなんだと最近つくづく思いますね。

黒田:結局、楽しくやることと、自分がやることに尽きるんだよね。台湾でも同じですよ。それはおそらく世界共通なんでしょうね。

加藤:岩谷さんの書かれた『サッカー 教え方・学び方』という本の中に「くすぐったいキック」というのがあって、「ぽんと足の甲でボールを蹴ったら楽しいんだよ」と書いてあって、あれが僕にとってのサッカーの楽しさの原点かもしれないですね。

賀川:彼は新聞にいかにサッカーを確立させるかということを書くのにひじょうに苦労してね、ボールを地球に見立てて、「赤道から下を蹴ればボールは上側に飛ぶ」と、それから「南極を蹴ればもっと上がる」「赤道より上を蹴れば抑えられる」とかね、いろいろ工夫をしてくれた。

加藤:高校時代に何十回と読みました。コーチングスクールとかに行くと、トップレベルのことばかりでね。特に女子は中学から始めたり高校から始めたりする子がまだまだたくさんいるわけです。その子たちには「足を靴の中でグーにしろ」とか、「靴の紐を結んでいる下のあたりで、ボールの赤道をちょんと蹴ってごらん」とか言うと、結構すっと入っていくんですよ。あれはとても大切ですよね。

賀川:子供たちにうまくヒントを出すことはひじょうに重要ですからね。なかなかちゃんと蹴れなかったのが、そのヒントでぽんと蹴れるようになると、サッカーが楽しくなるわけですよ。2人は今や指導者の中でも長老に近づいてきたでしょう。長老になる前にそういうことを次の世代の指導者に伝えてもらえれば、ひじょうにありがたいですね。

黒田:「サッカーの楽しさは自分一人が楽しいということではなく、そこにいるみんなが楽しいこと。それには工夫もいるし、目標もいる」とよく賀川さんがおっしゃっていた。

賀川:女子の指導の話もぜひ。76年に神戸FCは女子部をつくったでしょう。そのあとに全国リーグに出るという話が出て、会費だけで運営している神戸FCの所帯では厳しいから、田崎真珠にチームを預けて。

加藤:神戸FCレディースからTASAKIペルーレFCになって、今ではチームはなくなりましたけど、同じ神戸の今のINAC神戸の基礎をつくったのは、もともと神戸FCの職員をしていた田渕径二君ですし、神戸FCから脈々と温泉のようにいろんなものが出てきたというのは間違いないですね。
 ただ、男子の何年か後ろを女子が走っているような感じで、まだ「サッカーやめようかな」と思う教えられ方をしている女の子のほうが多いと思います。自分から進んで「楽しいな、もっとボール蹴ってみたいな」と思わせるような指導者は、女子の世界ではまだ残念ながら数が少ないようですね。

賀川:ワールドカップで優勝したことで一気に人気が出たけれど、あれを見て「がんばるものだ」という感じが強くなっていますよね。もっと面白いものだと思ってほしい。

加藤:たしかにうまくなっている。U‐17のワールドカップでも優勝して、そういうレベルの高い子どもたちも確かに出てきていますけど、じゃあ普及はどうなのかというと、もっともっと楽しくサッカーに触れ合える時間とかスペースだとかをつくるべきだと思いますね。

黒田:「できる奴は自分でどんどんやるけども、チームのなかにへたな奴がいたらそいつを助けて、もうちょっとうまくなるようにしてやるのが本当の一流選手だ」と賀川さんに言われてきました。チームとしてそこに穴が空いたら困るわけだから、選手同士が教え合うようなチームをね。最近はそういう余裕がなくなっているよね。

加藤:昔は、大人が誰も指示していなくても子供同士で考えてカバーリングということができた。「この子はこんなことが得意」「この子はこんなことが不得意」、それがわかっているんだったら互いにカバーすればいいだろうって学生に言うんです。

賀川:外国へ行って指導をして、そこから日本を見たときに「こうしたほうがいいのにな」と思うことはありませんか?

黒田:選手と監督の距離感が、ちょっと遠いような気がします。円になって指示を聞いているんだけど、遠くを見ながらしゃべっている。コーチは「わかっているだろう」と思っていて、選手はあんまりわかっていないのに「はいはい」という感じで。

加藤:双方向のコミュニケーションをとる習慣がなかなかないよね。

黒田:ちょっとそれは危険な感じがするよね。中学や高校をときどき見に行っても、相変わらず同じだな。昔のまんま。上から目線で指導をしているような。じゃれ合っちゃいけないけど、もっと一体になって、コーチと監督がもっと選手に近い距離でサッカーの話をしたほうがいいんじゃないかなという気はするな。

加藤:お互いをリスペクトしてね。先輩でも後輩でも、お互いにフランクに話し合える人間関係のほうがチームとしては結束力が増してくると思いますね。

黒田:それと、戦術論がこれだけ盛んになって、システムとかトレーニング方法のほうへコーチの関心が行って、「どうやって好きにさせ、やる気にさせるか」というアプローチがちょっと抜かっているんじゃないかという心配はありますね。

加藤:(滝二出身の)岡崎(慎司)君の本を読むと、ゲームに出れなかったときの心の中の葛藤とかが書いてあって、それを読むと子供たちはすごく励まされると思うんですよ。

黒田:「怒るな」とか、「叱るな」とよく言われたよね。萎縮しちゃうともうそれで終わっちゃうから、「もう一回やろうな」と後押ししたり、ちょっとひっぱったり、その雰囲気だよね。コーチの雰囲気。怖い顔していたら誰も近寄ってこないし、にこにこしてたら「もう1回やろうかな」という気持ちになる。それしかないような気がしますね。

賀川:技術的には?

黒田:賀川さんが昔から言われているような、左足でも蹴ることとか、ターンして蹴るというようなことは全然進化していない(笑)。

賀川:ボールを大事にするという習慣が身に付きすぎている、というのはあるけど。

もう一度やってみたいこと

賀川:最後に2人の夢をお願いできますか。

加藤:私は日本クラブユースサッカー連盟の会長もしていますし、街のクラブというスポーツ文化を、社会システムとして日本のスポーツ界に根付かせることが、今からの私の仕事かなと思っています。黒田さんのおっしゃった「スポーツを楽しむんだ」、「サッカーを楽しむんだ」ということをベースに、ちゃんとクラブの理念や指導の哲学があって、子供からおじいちゃんまで同じ考え方でサッカーをして、ずっとみんなが仲良く楽しいサッカーを続けられるようなクラブの社会というのかな。そういうものを実現するお手伝いができれば、というのがいちばんやりたいことですね。

黒田:重大な任務だ。僕の当面の目標は、台湾に楽しいサッカーを根付かせる、それを続けてくれる後継者を台湾の中で台湾人で育てるということですね。遠い夢ではあるんですけど、日本へ帰ってきたら、公的にはサッカーを生かせる学校というかクラブをつくりたい。個人的には、もう一度高校のコーチになって選手権初出場をめざしたい(笑)。

加藤:若いな(笑)。

賀川:まだ現場に出てみたい、と(笑)。

黒田:あの初出場の感動は忘れられない(笑)。開会式のときに国立競技場のゲートをくぐった感動は相当ですよ。もう一度やってみたいという気がしますね。

(2017年2月)


このページの先頭に戻る