このくにのサッカー

佐々木 則夫 × 賀川 浩

対談風景

対談相手プロフィール

佐々木 則夫(ささき のりお)
(写真:フォート・キシモト)
1958年山形県生まれ。帝京高校で主将としてインターハイ優勝、高校選手権ベスト4。日本高校選抜の主将も務めた。明治大からNTT関東に進み、1986年には同サッカー部が日本サッカーリーグ(JSL)2部に昇格する。引退後は大宮アルディージャの監督、強化普及部長、ユース監督を歴任。2006年にはサッカー日本女子代表コーチとなり、翌年には監督に就任すると、2008年の東アジアサッカー選手権での優勝、北京オリンピックベスト4を経て、2011年のFIFA女子ワールドカップ(ドイツ)で優勝。同年度のFIFA女子世界年間最優秀監督賞を受賞した。ロンドン・オリンピック、2015 FIFA女子ワールドカップではいずれも決勝でアメリカに敗れたが、チームを準優勝に導いた。2016年、リオデジャネイロ・オリンピックアジア最終予選終了後に代表監督を退任。

対談の前に

 佐々木則夫さんはNTT関東の選手兼コーチのときに、チームの技術顧問であった高橋英辰さん(愛称ロクさん)とも交流があり、対談のなかでもプレーヤーが自ら考えることの重要性を強調しているところは、ロクさん同様で、改めてサッカー指導の流れを思ったものだ。ワールドカップの優勝、オリンピックのメダル獲得で日本の女子サッカーは世界のトップを争うようになっているが、各国の進歩も急テンポである。「なでしこ」とともに世界を制した佐々木さんに、女子サッカーのこれまでと未来を聞いた。

対談

帝京は「教えすぎない」

賀川:今回は女子サッカーで世界的に有名になった佐々木さんに、代表監督を退いてちょっと自由の身になられて、いまなら言いたいことも言えるんじゃないかということで、お話を聞かせていただこうということです(笑)。初めにご自身のことをお聞きしたいのですが、幼少の頃に埼玉に移られてそこからサッカーをするようになられたんですか?

佐々木:そうです。父の仕事の関係で山形から東京、東京から埼玉の蕨に来て、小学校4年生ぐらいからですね。校庭にゴールが1組あって、休み時間にボール1個で5対5とか、まだ何のスポーツか全然分からないまま、皆でわーっとやっていました。それがサッカーだったんですね。もともと僕は野球少年だったので、始めは「何やってるの」って感じでした。でも自分も入れてもらってやっていたら結構面白い。僕は足が速かったので、「足が速いと得だな」とか思っていましたね。最近分かったんですけど、ちょうど1968年メキシコ・オリンピックで日本が活躍した頃で「これがサッカーなんだ」と思って見ていたんです。メキシコ・ワールドカップのアステカス・タジアムでプレーしていたペレのシーンを見た時に「すごい選手がいる、これが世界のサッカーなんだ」と思って、そこから野球をやめてサッカーに専念しました。

賀川:埼玉はサッカーどころですからね。高校は東京の帝京に行かれましたが、帝京がサッカーが強いから行こうと?

佐々木:そうですね。中学時代はもっとサッカーをしたかったんですけど、ケガばかりしていてなかなか思うようにはできなかったので。ただ、中学時代に満喫していたら、全国を狙えるようなところを選んだかどうか分かりませんけどね。埼玉は強豪高校が多いので全国大会へ出るのはなかなか難しい。だから「今なら東京の帝京に行った方が全国大会に出る確率が高いだろう。レギュラーを獲得すれば高校選手権に出られるだろう」という選択をしたんです。

賀川:浦和は市内に強い学校がいくつもがあるし、県内にもあるから。

佐々木:浦和南、浦和市立、浦和西。大山(照人)先生が着任して、その頃から徐々に武南も強くなっていました。大山先生から声をかけてもらったんですけど、「僕、帝京に行って、全国で活躍したいんです」って(笑)。

賀川:しかし、帝京の中でレギュラーになるのもなかなか大変でしょう。

佐々木:そうですね。グラウンドが狭いのに120人ぐらい部員がいましたから。特に下の世代には早稲田一男や宮内聡といった選手がいっぱい入ってきましたからね。上が強いと下からもいい選手が入ってくるんですね。逆に、選手権に行けなかったときは弱体の年代になるという構図で、僕が入った年代は弱体の代なんです。

賀川:あんまり強くなかった?

佐々木:はい。選手権を逃した次の年でしたから。

賀川:全国大会は出られたのでしょう?

佐々木:僕が3年生のときに首都圏開催になって、その年には出ています。浦和南と静岡学園が決勝をやった年です。

賀川:それで僕は見ていないんだ。東京まで出かけられなくなったから。

佐々木:準決勝で浦和南と対戦しました。勝てるだけの力は持っていたんですよ。インターハイでは浦和南に勝って優勝していましたから。1−1でPK戦になってしまって。そこで負けてしまったんですけどね。賀川さんは大阪でやっていたときは毎年見られていたのですか?

賀川:ずーっと昔から見に行っていました。東京オリンピックの頃は2年ほど東京に勤務していても、正月は関西に帰って見ていたぐらいでした。JFA現会長の田嶋幸三さんが浦和南で優勝したのが関西開催の最後の年でしたが、それも見ました。ターンしてシュートに持って行ったのをまだよく覚えています。

佐々木:ちょうど僕が1年の時に、帝京が初優勝したんですよ。田嶋さんたちの前の年で、広瀬(龍)さんの時です。だから、僕の下はすごくいいプレーヤーがいっぱい入ったんですよ。早稲田、宮内、金子久、高橋貞洋とかね。彼らをベースにして、僕たち3年生の代は3人ぐらいがレギュラーで、若いチームでインターハイを優勝したのですからそのあとも強いわけです。

賀川:やっぱり、高校の強いチームにいるということもまたひとつの経験ですから……。

佐々木:そうですね。いろんなことが学べますよね。いろんな強豪校、いろんな指導者の方と出会ったりできますから。古沼(貞雄)先生も、帝京に赴任してきてサッカーを知らないのにサッカー部の顧問になって、いろんな先生から教えを受けて名将と呼ばれるようになりました。

賀川:古沼先生とは94年のワールドカップのときに一緒になってね。いろいろ話を聞きました。

佐々木:小沼先生は「教えすぎない」人でした。僕らを指導するときも基本の大事さと、自分たちで工夫すること。教えすぎないのか、知らないのかは分かりませんけど(笑)。だから僕も3年になったときには、書物を結構読みました。『チャナディのサッカー』は高くて買えなかったので、図書館で借りて、戻して、また借りて、とかしましたね。守備の基本などを勉強しました。あの頃は120人いても、監督とキャプテンの二人三脚で全メンバーをコントロールしなければいけない。今だと120人もいればコーチが何人もいるじゃないですか。そんな環境じゃなかったので。すごく勉強させてもらいましたね。

賀川:その頃は上級生が下級生を教えるという習慣はありましたか?

佐々木:ありましたね。厳しくもあり、優しくもあり(笑)。

賀川:学校のスポーツは、上級生が下級生の面倒を見るという習慣がありましたからね。そういう意味ではクラブのサッカーとは別の面白さがあったという気がするんです。教える方も下級生に文句を言う時は、自分の頭の中も整理せないけませんしね。

佐々木:そうですね。上下関係の部分は昔ですから鉄拳制裁もありましたけど、それなりにいろんなことを先輩から学んだり、サポートしてくれたりということもありますからね。鉄拳のところだけが頭に残っているのではなくて、実際にものごとには序列があったり、さまざまな勉強をした重要な3年間ですよね。「サッカーだけやっている」みたいな感じでしたけど、その間にいろんなことを学んだことは今、大人になっても強く感じますよね。

賀川:そこでキャプテンをやるというのはなかなか大変なことですよ。

佐々木:そうですよ。僕一人っ子ですからね。一人っ子の甘えん坊で(笑)。転校が僕を育ててくれたようなところもありますけど、やっぱり根は一人っ子なのでよく自分に務まったなとも思いますね。

賀川:よい仲間も何人かいたわけですね。

佐々木:そうですね。僕の中学はすごく弱体だったんですけど、でも僕が帝京に行くって言ったら3人ついてきて。最初100人を越えるくらい入部してくるんですけど、最後は20人かそこらしか残らないわけですよ。3年生になるとレギュラークラス以外は受験勉強だったりで夏以降は半分抜けます。僕らの年代は下が強いので、残った3年生は10人ぐらいです。その10人の中に僕の中学からの仲間は全員入っていましたからね。みんな辞めないで。

賀川:3年生になって、レギュラーになれなくてもやめないでいるというのもまた強さですよね。

佐々木:本当にそうですよね。

賀川:佐々木さんは、足が速かったんですね。

佐々木:そこそこ速かったですね。でもサッカーのレベルが高くなってくると持久力の方が目立ってきましたね。

賀川:足の速い選手はどちらかと言うと持久力の乏しい傾向があります。

佐々木:僕は今で言うボランチで、中盤に宮内がいたんですね。宮内が展開力を発揮して、僕が相手攻撃の芽を摘む役ですよね。古沼先生は「ボールを取ったら宮内に預けとけ」と。でも僕はミドルパス、ロングパスが得意だったので、チェンジサイドの長いパスとか出していました。細かい華麗なのは宮内で、僕はどちらかというと摘み役。ただ、すごくバランスはよかったと思います。足の速い高橋の前に、右アウトでタッチライン際を巻くようなボールを蹴る練習を常にしていました。

娘が背中を押してくれた

賀川:佐々木さんは女子サッカーの、今や大家であるわけですが、女子サッカーに興味を持たれたのはそもそもいつごろからですか?

佐々木:うちの娘がですね、実は少女時代からサッカーをやっていまして。その少年団の指導者が学校の先生だったんですけど、「縄跳びうまいなぁ」って言って「サッカーやらないか」って導いてくれたんですよ。僕が「サッカーやれ」とか、僕がやっているからとかじゃなくて、小学校の先生にほめられたのがうれしくてサッカーを始めたんです。それで少年団の試合を見に行ったりして。やっぱり5、6年になると男の子の中ではなかなかレギュラーになれないので、そこから逆に僕が「じゃぁ少女チームでやったらどうですか」って先生に言ったら「そうだねぇ、もしよいチームがあったら」と言うことで、隣の町に少女サッカーチームがあったので、そこにうちの娘だけじゃなくて、4、5人行ったんですよ。そうしたら埼玉の県大会で優勝しちゃいました。

賀川:娘さんはそれからずっとサッカーをやっていたのですか。

佐々木:中学はサッカー部がなかったので、柔道部に入りながらクラブチームで週末かじる程度でした。高校は女子サッカー部のある埼玉県立の女子高へ進んでやっていましたけど、当時の女の子のサッカーはまだレベルは低かったですね。

賀川:僕らも神戸FCで女子の部も作ろうとやりだしたら、大人になって始めた子たちは我々老人のチームと試合しても全然相手にならない。急激に角度を変えて動くターンができないんですよね、普通の女の子は。だから「女の子は男のようなターンができないのかな」と思っていたら何年か経って、小学生から上がってきた女の子たちはターンができていて、こっちが置いてきぼりにされたりして(笑)。そのころから女子がだんだん盛んになってきました。代表の監督は2006年からでしたっけ?

佐々木:S級ライセンスで同期だった大橋(浩司)さんが監督だった2005年の春ぐらいに「ノリさん女子のコーチ手伝ってくれないかな」ってお話がありました。それまで数年は大宮アルディージャのユースの監督をやっていたんですけど、ちょうどチームづくりの最後の仕上げの年だったんですね。1年生から見てきた3年生を秋の全国大会になんとか出場させて。それまでアルディージャは全国大会に1回出たことがあるだけで、出てもグループリーグ敗退。何とかしたいということでやっていたので、「もしこの大会が終わった後でも、なでしこのコーチが見つからないのであれば、また声をかけていただければ考えます」と言っていました。そうしたらユースも初めてベスト4にまで進んで。その頃大仁(邦彌)さんが女子委員長をやっていたのかな。それとJヴィレッジで副社長をやっていて、そこで会った時に「お前、(なでしこに)来いよ」と言われて(笑)。「あぁ、あの件ですか、まだ見つかってないんですか」「まだなんだよ」っていうことで、僕もちょっと大宮ユースを教えるにはまだ環境が整わないので、じゃあ女子の方も考えておこうかなという気持ちになりました。僕はその頃NTTの社員で、なかなかプロの指導者でという一歩を踏み出せなかったんですけど、うちの娘も女房も「やりなさいよ」って背中を押してくれたんですよ。「2年間の契約で、女子のコーチなんて安いんだぞ給料」って言っても「いいわよ」なんて言う感じで。娘がね、高校時代のキャンプなんかで僕が指導をすることがあって、それが「すごく評判がよかった」って言うんですよ。「だから女の子の指導はいいんじゃない」と。そういう娘の言葉は、やっぱり女性相手で不安なところに後押しになりますよね。大橋さんにも「大丈夫だよ、ノリさんだったら」って言われて勇気づけられて、思い切ってやろうかなと。NTTも「2年契約で大変だから出向で行けば」と言ってくれたんですけど、その後も下の年代のカテゴリーを見てもらえないかと言われていたこともあって、中等半端だとNTTにも迷惑がかかるので、きっぱり「プロでやります」と決めました。

賀川:NTT関東といえば、高橋ロクさんがおられた頃ですか?

佐々木:高橋ロクさん! 高橋さんには本当にいろんなことを教えてもらいました。関東リーグからJSLの2部に上がる頃、高橋さんが世田谷に住んでいて、僕が埼玉の志木で、一時車で通勤していたんですよ。僕が車で送迎すると志願したんです。なぜかと言うと、車での長い時間にサッカーの話が聞けるからです。

賀川:ロクさん、サッカーの話が好きやからね。

佐々木:ワールドカップの話だとか、いろいろな話を聞きました。本当に一言一言がすごく勉強になるんですよね。古沼先生とかお世話になった指導者からいろいろ学んだことがありますけど、やっぱり僕のベースは高橋さんです。

賀川:ロクさんが大阪に来た時に、「関東リーグを見に行ってるけど、おもしろいよ」と言っていましたね。

佐々木:監督もいたんですけど、練習の7割ぐらいは高橋さんがやってくれたり。

賀川:第1回のアジアユースのときに、ロクさんが監督、僕はマネジャー兼広報ということで一緒にマレーシアへ行ったんです。歳はだいぶ僕より上なんですけど仲良くしてもらって。あれほどサッカーに博識な人はそういないですよ。

佐々木:サッカーに対する姿勢が真面目になったのも高橋さんのおかげです。将来指導者になりたいなんて言っていましたけど、浮ついた感覚でした。プレーヤーで、兼任でコーチもやっていたんですけど、煙草は喫う、酒は飲むで素行が悪かった。それを改めたのは、高橋さんの話を聞かせていただいたからです。そこでまず、煙草をやめました。

賀川:ロクさん自身が根っから真面目人間ですからね。

女子を指導する「言葉」

賀川:女子の代表を預かって最初にぶつかった問題は何でしたか。

佐々木:最初はコーチだったんで、どちらかと言うと大橋さんが主力のAチーム、僕は若い選手のサポートみたいな形で、ある程度分担しながらやっていました。若い子たちは、「教えてほしい!」っていう意欲がすごくあったので、とことん指導しました。若い選手を代表に呼ぶときには親御さんの承諾をいただくのですが、代表の活動中に怪我をして代表チームを離れる時に、どんな怪我をしたのかあまり細かくきちんと伝えなかったので親御さんに叱られたことがありました。意欲があるからといって、僕が男子と同じぐらいガンガンに教えるあまり、ちょっと負荷がかかりすぎたということもありました。

賀川:そうですね。平均して女性の方が物事を習うのに一所懸命ですよね。

佐々木:一所懸命ですね。「もっと、もっと」と言うので、負荷をかけたらやり過ぎて怪我をしたとか、故障したとかよくありますね。親御さんからすれば10代で代表に呼ばれて怪我をして、ちゃんと説明していなかったら「なんで?」って思いますでしょう。色々な方から預かったことを理解して、緻密なフォローをしなければいけない。男子より繊細に指導してあげなければいけない。あと女子には協調性がすごくあります。僕なんか性格的にずぼらなところがあるので、監督になったときでも怪我した選手に「今回はしょうがないな、じゃあ地元でしっかり治してまた頑張れよ」と言って帰すわけですよ。そうすると、他の選手たちはその選手を玄関まで送るんですよね。僕はもう彼女に話をしているから行かなくていいと思っている。そうすると後からキャプテンが……あの時は磯崎(浩美)だったんですけど、僕の部屋まで来て「だめですよ、玄関までちゃんと来なきゃ。話をしているのは分かっているけど、周りはそう思わない。冷たいと思われたらそれを取り戻すのは大変なんですから」って言われて「あぁそうか」って気付いたり。その辺の繊細なところをまだよく分かってなかったので、マネジャーに対しても、「何か俺が対応しているところで気付いたことがあったらどんどん言ってくれ」と言いました。磯崎はそういう雰囲気で直接言ってくれたので、こっちも「これから本当に気をつけるよ」と。あとは「なぜ帰すのか、できればみんなに伝えてあげてください」とかね。男が相手では気づかないことがありました。

賀川:「いつも君のことを思っているよ」というのを見せなきゃいかんわけですね。

佐々木:そうですねぇ。その辺から僕もやはり素で対応しよう、と思いました。言葉づかいでもなんでも、下手によそよそしく取り繕おうと思うと、そこばっかり考えてしまうので。やっぱり1番はサッカーを指導すること。もう立ち振る舞いも含めて素でやってダメなときは修正すればいい、と割り切った。あとはとにかく「何かあったときは言ってくれ」と。いつでも受け入れるから。受け入れて直すのは自分なのか、それとも選手たちがこれくらいは我慢するべきか、それは明白にする。あと気を付けたのは、僕が「こういうときは言うけど、こういうときは言わない」という自分のジャッジを明確にすること。「こんなときは叱っていたのに、なんで今回は叱らないのか」「こんなときは評価していたのに、なんで今回は評価しないのか」という曖昧なところをなくす。「分かりやすくしなければいけない」ということは男子より思いましたね。たとえば、マネジャーがみんなのために「いつまでに○○を持ってきてください」とか言うときに「はーい」って返事する選手と言わない選手がいる。そういうときに「なんでみんなのために言っているのに返事がないんだ」とかね、こういうことをしっかり、はっきり言う。

賀川:評価の基準をはっきりして公平にするということですね。

佐々木:代表での指導というものは、一人ひとりに合わせて細かくはできないので、全体的なところで理解してもらわないといけない。それと僕は、個人的に電話はしない。代表に呼びたい選手がいたら、ちゃんと向こうの監督、強化担当に伝えて了解を得て話をする。まぁ選手に挨拶ぐらいはしますけど、そこで長話とかは絶対にしない。

賀川:それは大事なことでしょうね。

佐々木:そうなんですよね。それは代表のコーチ時代にそういうのを見ていたときに、「これはよくないな」と思っていたので。他にも選手がいて、みんな代表に行きたいのにその選手とだけ身近にしゃべっているというのはよくない。「今日、ちょっとこういうことをお話ししたいんですけど」って監督に断って「いいですよ」と言われたら部屋を取ってもらって話すとかね。その辺は気を付けていましたね。

どうやって世界に勝ったのか

賀川:日本代表を預かって、あのころの目標は中国ですよね。最初に対戦したときに何をまず感じられました? やっぱり体格ですか? 体力ですか? 技術?

佐々木:僕がコーチをやっているときは中国だったんです。監督になるあたりから中国よりも北朝鮮が強くなってきました。

賀川:あ、そうだ。北朝鮮だ。

佐々木:大橋監督のとき、2006年にアジアカップがオーストラリアであって、開催国のオーストラリアも強かったんですけど、やっぱり中国でしたね。でも、やっとこの大会で勝てたんです。その頃から選手たちも中国に自信を持てるようになった。中国は高さもある、まぁまぁ技術もある、一人ひとりのポテンシャルもあるんですけど、チームの戦術はぬるいところがあって、少し粘っているとだんだん焦りが出てきて技術も戦術もぶれてくるので、その隙を突いて勝てて、選手たちに自信がついたと思いますね。ただそのころから北朝鮮がかなりよくなってきていて、僕の代になったときには中国よりも北朝鮮がパワーアップしていました。僕が監督になって1か月後に東アジア大会が中国であったんです。この大会では北朝鮮に先制されたけど2−1で逆転して勝ちました。それはもう、体と体がバンバンぶつかるわけですよ。我々も体を張って、スライディングしてミスを誘って次で取る、ダメでもまたスライディングして次に3人目で取るとか。そのぐらい徹底して前線から追い込んで、「周りに味方がいるから、スライディングしてかわされても、次のカバーがいる。どんどん躊躇せず体を張ってやれ」と。その結果逆転して勝てたんです。そのあと韓国にも勝ち、中国にも勝って、優勝したんですよ。

賀川:日本の女子代表の選手はカバーリングの感覚が非常にいいですよね。

佐々木:やっぱり日本の女性って、目配り、気配りが素晴らしい。だからゾーンディフェンスに合っている。目配り、気配りしてポジションを取るということは男子より飲み込みが早いですよ。あと仲間のエラーをカバーしようという力は、絶対男子よりも上だと思いますよ。

賀川:それはありますね。試合を見ているとそんな感じが強い。

佐々木:そういう資質を活かすということは絶対大事だと思います。小柄でパワーがない、そんなにスピードもない。それで、相手がでかいならどうするか。僕もアマチュア時代のJFLのNTT関東で、プロ化を目指して身体能力の高い日本人や外国人もいるようなチームと戦っていたんですよ。仕事もやって、サッカーもやる。厳しい環境だから、かえってチームに協調性があるんですよ。ちょっと似ているんですね、女子と。なでしこからオファーがあったときに、「こういう子たちだったら、自分もいっしょにやれるな、今までそういう男子を教えていたんだから」って思ったということもあったんです。小柄な選手はどう戦うか。サッカーにはオフサイドがあるわけですから、ラインをコンパクトにする。相手にスペースを与えなければ、そのパワーを封じることができる。

賀川:なるほどね。そうやって北朝鮮にも勝つようになって、次はヨーロッパ勢を相手にするようになりますね。そこから先も同じような感じですか。

佐々木:そうですね。ランクが上のチームとやらないと、自分たちの成長具合とか、どこに差があるんだとか、もっとどうしなければけないとかが分からないわけです。北京オリンピックに行く前も、ヨーロッパの強いチームとやりたいとオファーしたんですけど、やってくれないんですよ。「日本みたいに小さい選手と対戦したって意味がない」と。じゃあアメリカはどうか「ちょっと時間がない」と(笑)。「前に来てくれたじゃないか」と言うと、「点差は1点かもしれないけど、内容が内容なので」と、やってくれないんですよ。
 それで、しょうがないなと思って、男子と試合じゃなくて練習をやろうと。男子とポゼッションやってガンガンプレッシャーをかけてもらったり、セットプレーでどんどん体にぶち当ってタイミングを知れと。ヘディングなんかしに行くな、オブストラクションをとられないタイミングで、自分もボールに触れないけど、相手にも触らせないようにしろ、と。同じタイミングでボールに触りに行くと、ドンと押されちゃうんですよ。だからその前に体をぶつけて体勢を崩してボールは素通りでいいと。そういう練習は大橋監督のときも、その前にもやっていたんですね。ただ僕のときは、世界大会に行く前には一週間毎日男子に来てもらって、それで北京でなんとか目標のベスト4に行けました。そうしたら世界がボールを動かして、組織的にやる日本のサッカーを見てびっくりしたわけですよ。

賀川:ボールを動かして、組織的にというのは北京のころからあったわけですね。

佐々木:そこから世界は、こちらが「対戦してくれ」と言えば「OK」となって、アメリカ、ドイツはやってくれる、スウェーデン、ノルウェーもやってくれる。強豪国として君臨しているところが試合をしてくれるようになったんですよ。というのは彼女らも、日本みたいな緻密なサッカーを今後やらなくてはいけないと感じていたので、手合せして何とかしたいというのがあったでしょうね。あのときアメリカのピア(・スンドハーゲ)さん、今スウェーデンの監督をやっていますけど、すごく日本を評価していて「世界のサッカーにはこういうプレーが大事なんだ」ということを自分たちが優勝して言ってくれた。それだけに説得力があったんです。北京でベスト4になって、世界のトップと常にゲームができるような環境になったということは日本の女子サッカーにとって本当に大きかったですね。

賀川:佐々木さんは「日本のスタイルでいく」ということは意識してやっておられたわけですね。体格なんかのハンディキャップはもちろんあるけれども、「これで行くんだ」と。

佐々木:そうですね。例えばアメリカには長身の(アビー・)ワンバックがいるから、勝つためにはマンマークとかそんなことをやったってダメだということです。相手にどんなに強力なツートップがいて、トップ下にすごいのがいても、常に組織的に守備して、自分たちのペースで攻撃する。このベースのレベルを上げるということでやってきました。僕が監督になったのが北京オリンピックが終わった後、2008年で、そこから2年弱ですかね、徹底して我々コーチ陣主導でした。「こういうときはこの位置、こうなったらこうやってアクションする」とか徹底してベースを教えて。割合は5のうち4ぐらいが我々主導、1が選手たちの判断です。ある程度ベースができて、22〜23人がオートマティックにできるようになると、新しい選手に説明ができるようになるんですね。そうしたら今度はもう選手主導にして、5のうち2ぐらいが我々になるんです。
 何かあったら選手たちの判断でやる、という方向に変えたらプレーの質のアベレージが上がってきました。まさしくそこが帝京高校サッカー部なんですよ。選手がお互いに共有して、工夫して、打開する。「個」の判断ってサッカーのプレーの中では大事ですから。いつもスタッフ主導でやっていたら、なかなかそこの判断に磨きがかからないので、そういうふうに切り替えたわけです。帝京高校も先生たちはあまり教えすぎないので、どんどんこうやって結果が出てきた。やっぱりサッカーはそういう自主性を促す指導じゃないとだめだなというのが分かった。
 どちらかというと、女性はゆだねるんですよ。評価を気にしたり、何か分からないときは「これでいいですか? どうしたらいいの?」というのが男子より多いですよね。男子は分からなくても口に出さないと言うのがある(笑)。「聞くと俺の評価が下がるんじゃないか」と思って分かっているふりしている(笑)。でも、女性は聞くんですね。逆に最初に聞いてくれたのがよかったんですよ。次には教えないで、自分たちで判断させる。ある程度ベースはあるんだから、試合のいろいろな状況の中で自分たちで判断して対応する。そういうふうに切り替えて、だんだんアベレージを上げてきた、ということですね。

「続けて勝つこと」の厳しさ

賀川:ドイツのワールドカップで、非常にしんどい勝ち方であっても世界で勝ちました。すごい試合の連続でしたけども、あれで日本中が沸き立ったこともあって、女子サッカーが一時メディアの中でブームになりましたよね。それからむしろ非常に難しい時代に入ったと思うんですが。

佐々木:そうですね。北京オリンピックでベスト4になったことは、男子が3位になった68年メキシコ以来40年ぶりの快挙なんです、サッカーにとって。でも、そのときのことは、日本の皆さんにはあまり印象がないんですよ。サッカー界でもあまり覚えていない。なぜかと言うと、同じ日に女子ソフトボールが金メダルを取ったんです。ピッチャーの上野(由岐子)さん率いるソフトボール日本代表が、バスで同じ時刻に選手村を出た時に「お互い頑張ろうねー!」「銅メダルだけど取って来るよー!」とか「私たち金目指して取ってくるよ!」とか言って、帰ってきたら向こうは金でこっちは負けて。メダルが取れたら、もう少し扱いが違ったかもしれないんですけど。

賀川:オリンピックはやっぱりメダルがあるかないかは大きいですよね。

佐々木:40年ぶりのベスト4に行ったにもかかわらずね。「なでしこジャパン」って名前もすでについていて、売り出すチャンスだったんですけど、タイミングが悪かった。僕も悔しかったですよ。でもベスト4を皆目指していたんですよ。何故かというとベスト4になると最後までサッカーを楽しめるでしょう。「ベスト4を目指して、あわよくばメダル」と思っていて、でも本当にベスト4になったら悔しかった。だから僕も協会に「もう一回チャンスをくれ」と申し出ました。「なんとかこのチームで世界を目指したい」と思って、契約の延長をお願いしたんです。

賀川:そうですか。「あとはこのチームで行ける」という感じですね。

佐々木:はい。脈を感じました。この時点ではまだ我々主導でやっていて、目指すレベルを全然達成してないわけですよ。だからこそ「今、このぐらいできていて、これからは次のレベルを目指して戦えるからぜひやらせて」と言ってお願いしました。2011年、女子ワールドカップの取材に日本中のメディアが何で来たかというと、東日本大震災のために男子の日本代表が南米選手権に出場しなくなったからなんです。メディアもそっちに行く予定だったのがなくなった。それでメディアがみんなこっちに来たでしょう? それまでNHKが女子サッカーを完全放映してくれるなんてまずありえなかったわけですよ。それで、あれよ、あれよと勝ち進んだじゃないですか。日本が大変な状況の中で優勝して、メディアにもたくさん露出して、まず見てもらえたということですよね。

賀川:ワールドカップ優勝で盛り上がって、もちろんそれまでにも「なでしこリーグ」はあったわけですけど、みんなが注目するようになって、なでしこリーグも人気になる。そのおかげで「全体的にレベルは上がってきた」と思ったけれども、今度は逆に代表自体が昔に比べてひとつにまとまりにくくなったという感じがしたんですけどもね。

佐々木:2011年、あれだけ僅差の試合や、分が悪い中でも勝って優勝しました。ドイツの大きな壁を破ったときも、クロスを何本入れられたかわからない。そこで献身的に体を張って、相手にシュートをヒットさせなかった。もう1センチ頭の方に深く入っていたら点が入るぐらいのクロスやヘディングシュートがありました。でも、そういうものに対しても準備はしていたという自負もあります。ただ、次の年にオリンピックがあって、予選を突破しなかったら「なんだ優勝したのはフロックじゃないか」「アジアでも勝てない」となります。でも、申し訳ないけど期間が無さ過ぎる。疲労感も残る中で、真夏の予選です。でもあの時は本当にみんなで「女子サッカーを変えよう」という気概があった。自分たちがアジアで優勝した、世界で優勝したと言っても、今のコンディションではオリンピック難しい。守って、守って、カウンター、でいいんだよ、ということで足並みをそろえてやったことが、ロンドンの銀メダルにつながりました。リオは予選で負けてしまいましたけど、本当に厳しいんですよ。

賀川:ワールドカップの翌年にオリンピックと言うのはどう考えてもきついですよね。

佐々木:だからヨーロッパはワールドカップ上位のところが出場することになっていて、予選なんかやらないです。アジアはまだ切磋琢磨するという狙いもあって、あんな厳しい期間で、それもワールドカップ優勝して1カ月ちょっと後に予選をやるわけですから。ロンドンでは厳しいながらも決勝に進んでアメリカと対戦しました。僕はワールドカップで勝った決勝よりも堂々とサッカーができたと思います。ただ、その後チームの足並みが乱れてきた。また監督を引き継いだんですけど、それは大変でした。

賀川:そりゃそうですよ、さらにもう一回はね。

佐々木:選手もそうだったんですよ。選手もパワーを精いっぱい出してきたので「代表は引退しようかな」という声は多かったんです。僕もそう思って協会には言っていたんですけど、その時は被災地の方からいろんなメッセージをいただいて、元気をもらいましたので、そういう「行脚」を1カ月ぐらいしていました。そうしたら協会から「(後任を)今探してはいるんだけど、もう少し(留任を)考えてよ」ということを言われたんです。なぜ続けたか。女子サッカーがワールドカップで優勝して、オリンピックで銀メダルもとって、日本では「なでしこジャパン」が広く知られるようになった。だけど、じゃあ底辺の部分でそ組織ができているか、女子がサッカーをやる場が増えたのか。みんなこれからなんですよ。その中で、女子サッカーの仕事をする自分の人生の幅を、他の仕事をする幅と比べてどうなんだろうと考えた時に、女子サッカーのためには自分の存在がまだ大きいんだから、人生のまだ先が長い今、自分が求められているところで仕事をすることが、自分に課せられた道じゃないかなと思ったんです。選手たちもそういうふうに悩んでいるということも知っていたし、相談もあったので、「悩んでいるんだったら、とりあえず代表に来て、もう一回このチームでやってみて、それでどうなのかを考えるのもいいんじゃないのか」ということで1年間ぐらいみんな、以前のままやりました。ただ、その後のこともありますから、もちろん若手も使う、そういう悩んでいる子も来てもらう、1年はそういうような活動がありました。

賀川:ワールドカップで優勝して、次のロンドン・オリンピックでもいい成績を上げたあと、協会としてもう少し日本の女子サッカーが重要なものだと認識して、全体的に底上げをして、厚みをつけるということをもう少し考える必要があった。そういういう気はしますね。もちろん協会にもちゃんと女子の部門があって監督、コーチもみんなおられるわけですけどね。

佐々木:考えてはいるんですけど、ちまちましているんですよ、やり方が。アメリカなんかすごいですよ。ドンとやる。アメリカで女子ワールドカップをやって、お客さんもドーンって入りましたよね。すると大学に奨学金とか、女子サッカーができる環境を一気に整えたわけですよ。だからあれだけ広がり、いろんなスポーツのベースができているんですよ。

成功も失敗も伝えていきたい

賀川:女子サッカーが盛んになって小学生から女の子たちがボールを追っかけて走るということが日本でももっと広がればですね、それがあらゆるスポーツ全部のかさ上げになる。

佐々木:かさ上げになるし、本当にサッカーってお金もかからないしスポーツ全般の導入としては素晴らしい競技ですからね。そこから別のスポーツに移行しても全然いいんですよ。そういう競技なんですよ。そういうことをもっと提唱して、サッカーをやりたい人は続けて、やらなくても他のスポーツに流れてもいい。ただその場があること、環境があればいい。

賀川:今は勝てなかったことで、オリンピックに女子が出ないことがどれだけ寂しいかが分かればですね、そこでもう一度JFAとしてテコ入れを考えなければいけないですよね。

佐々木:Jリーグでもそうなんですよ。ワールドカップで女子が優勝したときに、この勢いでJクラブでも女子、各クラブにつながりのある下部組織を作らないといけないという話があった。ところがいつの間にかトーンダウンしちゃった。腰も上げてないですよ。「予算が」「人が」とかなんとか言ってね。スポーツをどうこうせいと言いながらも、結局女子がパワーアップしてもこうです。言うことを言える立場になって、僕は来年ぐらいからそれを提唱しようと思っているんです。

賀川:僕らも戦後、サッカーをもう一回やり直そうと活動していたときに、田辺五兵衛さん、田辺製薬の社長でのちに会長になられた人ですけど、サッカーおたくの大先輩がいて、その先輩がかねがね言っていたのが「浩ちゃん、女子だよ女子、女子をやらないかん」と。なんでかというと、「まず女子サッカーが盛んになれば、女の子は25歳になったら子供を生む。男は30にならないと子供はできない。そうすると世代交替が速い」と。お母さんがサッカーをやっていたら子供はその影響をたいてい受ける。

佐々木:FIFAもそうですよね。女子サッカーを繁栄させるのは、単純に競技の魅力もあるけれど、女性でサッカーに関わる人たちが多ければ、子供をサッカーに導けることは明らかです。

賀川:特に日本の場合は、日本人全体が「走る」ということに疎い。例えばニュージーランドやオーストラリアの選手を見ていたら、みんなちゃんとした走り方で走りますよ。そういうところから見れば、日本のスポーツ全体のかさ上げも女子が小さな頃からサッカーで走ることから始まる。

佐々木:そうですね、走るというところですよね。本当にサッカーって走るという意味では育成期に本当にいいんですよね。すごくいいんですよ。

賀川:もちろん、いろいろなモヤモヤもあったりするのでしょうけれど、佐々木さんには、ぜひこれからもう一段女子に力添えを。いまは女子に直接かかわるわけではないんでしょうけど。

佐々木:そうですね、直接ではないですけれど。今度、中高大と一貫して女子サッカーがある大学を見ます。各年代が継承しながら、選手を作るということにしっかりかかわっていきたいと思っているんです。今後女子サッカーで活躍できる選手を作るためにはどういうタイプがいいかということも分かっていますから。小柄で機敏な選手もいいんですけど、もっと体格も良くて身体的にも強い選手もその中から作って行かなければいけない。どうしても日本人は小柄できびきびしている選手がいつも使われて、結局国際試合では厳しくなる。

賀川:そうですね。女子のほうが体格のいい子が他のスポーツに行く確率が高くないですか?

佐々木:高いですね。やっぱりバレー、バスケは人気がありますし、そういう身体能力が高い子がサッカーやっていたらどうなんだろうというのはありますね。

賀川:女の子でも背の高いセンターフォワードがいて、センターバックがいて、それがものすごくお金になったら、皆サッカーに寄ってくるかもしれませんね(笑)。

佐々木:その受け皿づくりに関わることだったり、Jリーグのクラブに女子のチームを立ち上げさせるとか、そういうことに対してもちょっとアクションしていこうかなと思っています。Jクラブには女子を作らないといけません。日本の女子は今の環境の中だけでは、やはり世界に太刀打ちできないですね。INAC神戸さんとか、日テレさんとか、がんばってくれていますけど、いくつもないんですよ。そういう環境がなくてもがんばってくれた選手でなんとかここでやれましたけど、これからはそれだけでは難しいレベルになりますからね。

賀川:せっかく頂点までいったのに、継続性がないともったいないですからね。

佐々木:中国じゃないですけど、あれだけ強かったのがガクッと落ちて……。中国とは違う要因だと思うんですけども。いずれにしても、そういう状態はどこの国でも起こり得るわけですからね。

賀川:だから心配なのは、それこそメキシコの銅メダルのあとの日本の男子のサッカーみたいな感じが、なきにしもあらずということね。もちろん昔から見れば何十倍にも選手の層は増えているわけなんですがね、そこからどうやって世界で戦える選手を引っ張り出すか、ということなんですね。それには佐々木さんにもうひとがんばりしてもらわないと。

佐々木:陰でね(笑)。

賀川:そういう仕事が増えてきますよ。

佐々木:2016年は大学のほうで自分も勉強しながらやって、17年ぐらいからちょっとサッカーにも関わるようなことを…と考えてはいます。僕が男子のサッカーでもチャレンジしてがんばったとしても、やはりもう(アレックス・)ファーガソンまではなれないだろうし(笑)。それだったら客観的な、後押しみたいな形の仕事がいいんじゃないかな、と思って。そういう方向性で女子の選手を下から作ることや、Jリーグのクラブで女子チームを作れるところにアプローチしたり、Jリーグの経営もしてみたいと思っています。まだわかりませんけど、現場で指揮をするよりも現場に行く人にアドバイスするほうが僕はいいかなって。成功も失敗したことも、もっともっと伝えていきたいなと思います。

(2016年4月)


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