このくにのサッカー

岡野 俊一郎 × 賀川 浩

対談風景

対談相手プロフィール

岡野 俊一郎(おかの しゅんいちろう)
(写真左)(写真:ヤナガワゴーッ!)
1931年8月28日、東京都生まれ。東京大学卒業。1965年、日本サッカーリーグの創設に関わり、1993年Jリーグの理事。また、日本サッカー協会では、理事、副会長として2002年FIFAワールドカップ招致に尽力。1998年会長に就任し、大会を成功に導いた。2005年 第1回日本サッカー殿堂入り。

対談の前に

 岡野俊一郎さんは、30歳の時に日本ユース代表の監督を務めて以来、JFA(日本サッカー協会)にかかわり、代表チームのコーチとしてメキシコ・オリンピック(1968年)の銅メダル獲得、JFA会長として2002年日韓ワールドカップ開催の成功など、日本サッカーの興隆、発展のその時々の当事者として大きな業績を重ねてきた。サッカーだけでなく、JOC(日本オリンピック委員会)、IOC(国際オリンピック委員会)委員となって、日本のオリンピック活動に貢献してきた。84歳の今、公職から離れているが、サッカーとオリンピックという最も大きなスポーツの世界で、日本の存在を高めてきた岡野さんの経験と知識は、日本にとってとても大きな財産と言える。

対談

監督が健さんだから
二つ返事で引き受けた

賀川:俊(しゅん)さん(※岡野氏の愛称)は、高校の時も大学の頃も、サッカーのリーダーだった。JFAの幹部が、そのリーダーシップに目をつけ、東京オリンピックの2年前に、長沼健さんと組んで、30代の若い2人で代表チームの監督、コーチになるよう要請しました。

1961年、西ドイツへのコーチ留学の直前。空港にて。

岡野:その前に、1958年東京で開催された第3回アジア大会で日本はフィリピンに負けたのですよ。0-1で。もう東京オリンピックが決まっているわけですから、「これじゃ困る」と言うので、初の外国人コーチとして、(デットマール・)クラマーが呼ばれたのです。僕は第3回アジアユース大会の代表監督を務めたこともあり、協会の仕事もしていたのですが、竹腰(重丸=当時の強化責任者)さんに呼び出されて「お前、東京オリンピックの日本代表コーチをやれ」と言われました。僕はとっさに聞いたんです。「監督は誰ですか?」。そうしたら「長沼だ」と言われました。それで「やります」と、二つ返事で引き受けたわけです。

賀川:では、別々に話が来たのですか。健さんと2人で呼ばれて行ったわけではないんですね。

岡野:別々です。健さんとは戦後復活した中等学校選手権、今の高校サッカー選手権で、西宮で行われた大会の1回戦で当たって初めて顔を合わせました。広島高師附属中と僕の都立五中(現小石川高校)の対戦を主催の毎日新聞では「事実上の決勝戦」なんて書いてね。とんでもない。前半0-0だったけど、後半5点叩き込まれて0-5で完敗ですよ。今でもその時のFW陣は覚えていますよ。木村(現)、長沼(健)、樽谷(恵三)、太田(喜昭)、これに5点叩き込まれてね。その後、後楽園の競輪場で行われていた都市対抗では、他チームから補強ができたので、健さんが入った古河電工が出ると必ず私を呼んでくれたんです。だから、都市対抗で一緒にプレーして優勝したりしていました。こっちは呑兵衛で、彼は酒飲みませんけど、試合の後にはワイワイやって、気心は十分知っていた。それで「監督は長沼だ」ということで、「じゃあやります」となった。まぁクラマーの提言もあったんでしょうね。とにかく若いのにやらせろということだったんだろうと思います。協会もよく思い切りました。

賀川:僕は野津(謙:当時日本協会会長)さんや川本(泰三:ベルリンオリンピック日本代表、元日本代表監督)さんからいろいろと聞いていて、記事には全く書かなかったけれども、クラマーは「2人にやらせてくれ」と言ったそうですね。それはさすがに慧眼だなと思います。引き受けてからは、雑務から何からものすごく働きましたよね。

岡野:協会自身が財政的にも苦しい時代ですからね。僕は大学を出て、もうサッカーとは関係なしにしようと思っていたんです。やっぱり一応は商人の家の生まれで、後を継がなければなりませんのでね。ところが、協会からユースをやれ、クラマーが来るから今度は代表チームを見ろと、次々に言われたわけです。親はあんまり賛成はしてなかったですね。ただ、国を挙げてのことですから「やれるならやってごらんなさい」程度の応援です。オリンピックの日本代表チームのコーチをやるなんて言っても喜ばないですよ、商人は。それより売り上げを伸ばす方が大事だから。それで、どこまでやれるか分からないけど、とにかくクラマーが基礎を作ってくれたんだから、健さんとそれをフォローしてがんばろうということで引き受けたんです。今振り返ってみると、東京オリンピックのレギュラー11人の内5人が大学生ですよ。横山(謙三)、山口(芳忠)、小城(得達)、杉山(隆一)、釜本(邦茂)。山口なんか19歳で、海外に行くとき両親の許可がないとパスポートをもらえないんですよ。そんな若い人を連れて、随分世界中を回りましたね。健さんが団長で監督、僕がコーチ、通訳兼マネジャー。2人だけで20人から23人のチームを連れて、ソ連、共産圏から西欧、ブラジル、南米、東南アジア、まぁよく旅したものですね。でもあれがあったからチームは強くなりました。武者修行と言うと古い表現ですけど、メキシコで銅メダルを取れたのは、そのおかげです。ソビエトサッカー連盟の協力が非常に大きかった。あれがなかったら銅メダルはなかったと思いますね。

賀川:日ソスポーツ交流というのがありましたからね。お互いの遠征中の移動、宿泊の費用はその国が負担するという。

岡野:おかげでクラマーが提言したように、代表チームが毎年ヨーロッパでの試合を実現できたわけですよ。だから今でも僕はソビエト連盟には本当に感謝していますね。

賀川:シベリアを移動して行く長い旅も、苦にはなったでしょうけど(笑)。

岡野:最初は横浜からナホトカですからね、船で。一晩泊まって陸地が見えたから「あぁソビエトだ!」と言ったら、船員に「あれは三陸です」って言われちゃって(笑)。

賀川:東京オリンピックの後に、日本のすべてのスポーツ団体が一息入れてしまいましたよね。大きなイベントが終わって。そのときにサッカーは次に向けてすばやく動き出したということが大きかったと思います。

クラマーさんからの
4つの提言

岡野:国立での閉会式のあくる日、椿山荘でクラマー一家のフェアウェルパーティーをしました。奥さんと息子が来ていて、その時に彼が「ドイツ語でしゃべりたい、通訳しろ」と言って、全部ドイツ語で4つの提案をしたわけですね。人によっては5つと言いますけど、僕は4つだと思っています。第1は「代表チームは必ず毎年ヨーロッパへ行って強いチームと対戦しろ」。第2が「コーチングシステムをしっかり作れ」。そしてできればユースからトップチームまで同じ人間が責任者になってやりなさい。第3が「総当たりのリーグ戦をやりなさい」。日本ではノックアウト方式の大会が多いけれど、あれでは強いチーム同士の試合が少なすぎる。だからリーグ戦をやりなさい。最後が「芝のグラウンドを維持しなさい」というものでした。我々としてはできるだけその提案に沿うようにしよう、ということで翌年に日本リーグを結成したんです。このときメディアが非常に好意的に扱ってくれました。おかげで次の年にアイスホッケーから連絡が来て、「自分たちもやりたい」「どのようにやったんだ」と聞いてきました。その次の年にはバレー、バスケット、それ以降バドミントン、卓球とほとんどの競技が日本リーグを立ち上げました。やはりクラマーの提言というのは非常に影響力がありました。

賀川:そうですね。日本の全スポーツがそれを踏襲したわけですよね。

岡野:影響はサッカーだけじゃなかったですね。競技団体によってそれぞれ歴史がありますから、伝統というものをそう簡単に壊すわけにはいかない。したがって時間がかかるところも出てきますし、今もって統一されないところもある。だけど、基本的に各チームが総当たりで対戦するリーグ戦がやっぱり大事なんだ、ということは相当徹底して広がったと思いますね。4つの提言のなかで、芝生の維持は難しかったですけど、これは後にJリーグを始めるということを土台にして、芝のグラウンドが一定以上の水準になったと思いますね。
 メキシコ以降は、クラマーに言われていたけれども日本代表は若返りをちょっと怠りましたね。思い切って若返りをしていれば、もう少し早く立ち直ったと思いますがね。その決断ができなかったのが尾を引きました。それで、しばらく低迷してしまった。

オリンピックは平和の祭典
市民スポーツの環境向上を

賀川 浩(写真:ヤナガワゴーッ!)

賀川:それから俊さんはJOCの仕事で忙しくなりましたね。私は俊さんがJOCの仕事をしてくれたので、JFAも幅が広くなったと思っています。

岡野:最初は日本体育協会ですね。昭和50年(1975年)に連絡が来て「理事をやれ」と言われました。「まだ40代ですよ」と言うと「いいんだ、若返りをするから」と。で、「誰がやるんですか」と聞くと、水泳連盟の専務理事の福山(信義)、レスリングの笹原(正三)、私を入れて昭和一桁生まれを初めて採用するんだということでした。会長の河野謙三さんの強い意志でした。それで理事として入って、最初は競技力向上委員長をやって、次の改選でJOCの総務主事になりました。そこから、サッカーから離れましたね。Jリーグを作るときも、JOCの独立運動に力を入れていましたので、ほとんど絡んでいないんです。80年にモスクワ・オリンピックボイコットの問題もあって、独立まで9年かかったんですよ。Jリーグの設立が93年ですからね。89年にJOCが独立して専務理事になって、ほとんどそちらに専念して、それが終わったらIOCに入れということになったんです。Jリーグには名前を提言したことに関わっただけです。

賀川:英語、ドイツ語に通じ、またテレビ放送に出る機会が多かった俊さんは、スポーツ用語についても正しい言葉の使い方を常に強調してきましたね。

岡野:協会の役員も、指導者も、メディアも、サッカー用語じゃない言葉を平気で使っていますよね。僕は「ルールブックを見なさい」と言うんです。サッカーをプレーする場所はフィールドと書いてある。どこにコートと書いてありますか? コートという言葉は英語でも、狭い壁に囲まれた一角を言う。だから、狭いところでやるテニス、バレーボール、アイスホッケーはコートでいい。サッカーはフィールドです。新聞を見ても、平気で「ハーフコートで練習」とか書いている。ラグビーや他の競技で解説者がそんなことを言ったら一発でアウトですよ。サッカーは普及した代わりに非常にルーズになりました。

賀川:その点は気になりますね。

岡野:Jリーグを作った時も、川淵(三郎)が来て「理事長をやります。理事長っていうのは古臭いからコミッショナーにします」と言うから、「コミッショナーというのは野球で使っているじゃないか。新しい発想でJリーグを作るのに、なぜ野球の用語を使うんだ」と言ったのです。そうしたら「岡野さん、反対するなら何か提案してくださいよ」と言うから、ちょっと考えて「チェアマンで行こう」と。「チェアマンって聞かないですね」「だからいいんじゃないか。どこに行っても『私はJリーグのチェアマンの川淵です』と言って歩いたら、そのうちチェアマン=川淵になるよ」と話しました。

賀川:実際にそうなりましたね。

岡野:テレビで解説を聞いていても、選手を一枚とか二枚とか言う。あれはバレーボールの松平(康隆)さんの言葉からですよ。ブロックに飛ぶ選手を板に例えて言っていた。サッカーでは、一枚二枚なんて言うことはないんです。

賀川:デットマール・クラマーはいつも言葉をちゃんと選びましたね。メディアが間違うのは、そのうちに気付いて直してくれたらいいんですけど、協会が間違うと困りますからね。これがちょっと難儀なところでね。

岡野:正しい言葉遣いは大事にしないといけないと思いますね。最初の頃は「三位一体」と言って、公共の建物はチームで持てないから地方自治体の協力を得よう。資本は企業の力を借りるのも一つだけど、業績が悪くなればすぐ無くなる。だから複数の企業に協力してもらう。競技の運営は協会・クラブの関係者だけでは足りないから地元の市民の協力を得よう。そのためには地元の人たちにお返しをしなきゃいけない。つまり三位一体でやらなきゃいけない。ただ、こういうこともだんだんと薄くなるわけです。うまくいくところはうまくいくけど、やっぱりだんだん薄れていく部分もある。クラブが財政面で独立採算をきちっとできるようになっていけば、多少薄まってもいいんですけどね。原則としては地元に根付いた地域のクラブというのがJリーグの発想ですからね。やっぱりそれは忘れちゃいけないですね。

賀川:そういう意味ではガンバ大阪が、バックアップ企業のパナソニックも随分お金を出したでしょうけど、自分たちのスタジアムを自分たちの集めたお金で作って、それを市へ寄付する形にして、公共の設備だけれども使う権利を持っているという形でスタートしましたよね。ようやく自前のスタジアムを自分で持てるようになった。ヨーロッパのようにはいかないとしても、少しずつでもそういう形ができ始めたということは最近のサッカーのなかでは非常に大きな進歩だと思います。

岡野:おっしゃるとおりですね。あれは非常に大きな成果ですよ。他のクラブも「うらやましいな」と思っていると思うんですよ。うらやましいなら、それを努力目標にしなきゃいけません。「うちもそういうふうになりたい」と思わないと困ります。
 スタジアムといえば、オリンピックも問題です。オリンピックの意義は何と言っても都市改造なんですよ。ロンドンはオリンピック競技場によって、周辺地域を安全で緑の多い場所に変えた。北京もそうですよ。僕が最初に行った頃、飛行場から北京の街までポプラ並木ですよ。馬車が走っている横をバスで行きました。今や高速鉄道であっという間です。88年のソウルもそう。それまで、ホテルらしいホテルはなかったけど、オリンピックのおかげで素晴らしいホテルがいっぱいできて、地下鉄もできた。しかし、今の東京はこれ以上都市改造はできないですよ。じゃ、何か。オリンピックというのは一つの平和運動なんですね。これはね、オリンピック憲章を変えたから、あまりはっきりしなくなってしまったけど、昔は「世界の若人がスポーツを通じて相互理解と親善を深めるために4年に一度行う」とオリンピック憲章に書いてあったんです。でも、今は・・・。

賀川:ないんですか。

岡野:ないんですよ。オリンピックで選手を一堂に集めるということは選手村に入れるということですよ。今、選手村にみんな入らないでしょう。お金を持っているところは試合の直前に来て、すぐに帰る。早く来てもホテルに入って選手村に入らない。平和ということを忘れていますね。だけど1964年の僕らの最初の印象というのは、ブレザーを着て国立を行進して、青空に五輪の輪を作った。平和っていいなぁと、つくづく思いました。僕らみたいに戦前派はね、やっぱりそれが一番の印象ですよ。だからオリンピックというのは平和運動なんです。第二に都市改造はできなくても、市民にスポーツを身近でやれるような環境を作るのがオリンピックですよ。

賀川:本当にそうですね。

岡野:70年代に代表チーム連れて、ハンガリーのブダペストへ行ったときに、泊めてもらったのが、ネップシュタディオン、人民競技場ですよ。8万人収容のスタジアムで、中にホテルまでついている。だからチームはそのホテルに泊まって、ホテルのレストランで食事をして試合をするわけですよ。「いいなぁ」と思った。それで僕の大学の同級生が銀行の頭取をやっていたので、会ったときに「国立競技場を建て替えて、スポーツクラブにしよう。ホテルを作って、1階にはスポーツジム、駐車場もある、場合によっては自動車のショーウインドーなんていいじゃないか」、「会員権を売り出せば、100万、200万円で入るとはころいっぱいあるよ。考えろよ」と言ったら、「それいいな。早速企画するよ」と乗り気だった。ところが、3か月ぐらいして連絡が来て、「おい、あそこは公園法で、人を泊めるなんてできないよ」と言われたのです。今度のオリンピックは、そういう今までの堅苦しい法律みたいなものをぶっ壊して、あそこにいわゆるスポーツクラブをつくってみる。「国立スポーツクラブ」って言ったら入りますよ、みんな。

賀川:いろんな法律が絡んでいるからダメではなくて、これはスポーツのものなんだという発想が必要なんですね。

岡野:スポーツの文化の殿堂にしなければいけない。大会がやれればいいなんて情けないですよ。

賀川:そのためにスタジアムは大きい方がいい。大きいほどゆったりできるし、中にいろんなものをつくることができますよね。

日本のスポーツ組織は
「船頭」が多すぎる

賀川:IOCの仕事も随分長くやられて、結局サッカーであれ、スポーツ全体であれ、インターナショナルな仕事が全部、俊さんのところに集まってきましたよね。

岡野:あまり政府のことを言ってはいけないんですけどね、僕は最初からスポーツ庁には反対しています。いいんですよ、スポーツ庁があることは。ただ13省庁が持っているスポーツ関連予算を全部吐き出してくれるのならですよ。でも現状では、それは全部握ったままですからね。スポーツ庁に何ができるんですか。「昔から船頭多くしてなんとか」と言いますが、東京オリンピック組織委員会がある、国がある、都がある、スポーツ庁がある、オリンピック担当大臣がいる、スポーツ振興センターがある、体協がある、JOCがある、どこがリーダーシップをとるんですか。長野オリンピックまではこんなことなかったですよ。2020年の後は、オリンピックは当分来ない。これはやっぱり日本のスポーツにとってすばらしいチャンスですよ。

賀川:それにはJOCの独立性ということになりますか。

岡野:JOCの独立運動の時に体協と競ったわけですよ。体協としては「JOCは派遣だけでいいじゃないですか」と言う。私は「それは困ります。成績が悪かったら叩かれるのはJOCです。送る以上それに見合った力のものを送らなきゃいかん。とすれば、それに見合った力のチーム、選手を育てるのはJOCです」と反論しました。あの頃、日本体育協会の収入で一番大きいのはオリンピック強化資金だったのです。その一番いいところをもらうわけですからね、なかなかオーケーしてくれなかったけれど、最終的に「分かりました」と、当時の会長だった青木半治さんが言って下さって、それで独立したわけです。それがいま、国家予算を差配するのは日本スポーツ振興センターですよ。JOCじゃないんです。JOCは結局派遣だけになってしまったんですよ。淋しいですね。20何年も経つといろんなものが変わります。

スポーツは人を感動させるもの
さらなる選手と指導者の育成を

賀川:日本は何と言ってもオリンピックというものがあって、いろんなスポーツが盛んになってきたから、ヨーロッパなどとは違って、サッカー界全体もオリンピックには非常に目を注いでいますよね。それも含めて、これからの日本サッカー協会自体についてどのように思われますか。

岡野 俊一郎氏(写真:ヤナガワゴーッ!)

岡野:僕は率直に言って日本サッカー協会を心配しています。一言で言えば、財政が豊かすぎます。2002年ワールドカップのとき、いかにして黒字にするかが私の最大の仕事でした。あの頃も、国内のスポンサーなどが協賛金を出してくれましたし、FIFAも応援はしてくれましたけど、一番大きかったのはチケット収入です。そしてこれはドル建てですから下手したら大きな赤字になる。だからリスクヘッジをかけたり、いろいろして結局は黒字で終えることができた。いま協会がいる建物も2002年大会のおかげで買えたわけです。財源が豊かになったのはいいんですが、例えばナショナルチームだけを言えば、4年間外国人のコーチを呼んで、何億という金を払って、勝ち負け、成績、終わったら反省も分析もなし、また新しいのを呼ぶ。夢がないですね、金がありすぎて。金を大事にしなきゃだめですね。

賀川:われわれメディアから見ても、日本サッカー協会に会費を払っている全チームに知らせる広報誌に強化部の報告は載っているけれども、一番の当事者であった監督さんの詳細な報告は載らないなど、いささか腑に落ちないところはありますね。

岡野:やっぱりね、財政がもうちょっと苦しい時は、いかに有効に使おうか、使った金を次はどう考えていくか、反省もあったんですよ。

賀川:金だけの問題じゃなくて、メキシコ・オリンピックの報告書を読んでごらんと言うことです。昔は監督やコーチがきちっと報告書を書いているでしょう、具体的に。いまはなぜ日本協会の広報誌に監督・コーチの報告書が載らないのか。昔、健さんとも「今まではお金がなかったから、みんな手弁当でやったけども、これからお金が少し残るようになってくると大変だね」という話をしたことがあります。

岡野:それは先見の明がありますよ。僕は別に贅沢をしちゃいけないとは言いませんが、やはり「○○監督:年俸いくら」そういうのは公表すべきなんです。何をやったか、結果がどうだったか、という分析もないんです。ブラジル・ワールドカップの報告書もないんですから。(アルベルト・)ザッケローニ自身の人柄は本当にいい。だけどもね、ナショナルチームの監督をやったことはないんですよ。それはね、ジーコで失敗しているんですよ。ジーコが鹿島を本当に強くした。これは事実です。だけどジーコは代表チームの監督をやったことはない、選手としてはプレーしたけど。いろんなチームから人を集めて、一つにするという経験がないんですよ。岡田(武史)が次の南アフリカ大会でがんばって、16強まで行った。そのあとまた代表監督をしたことのない、クラブチームの監督をイタリアから呼んだわけですね。金が高いとか安いとかじゃなくて、やったことをきちっと、報告が出せるという組織にしないとね、うやむやに終わらせてはいかんですよ。
 ラグビーのワールドカップでの南アフリカ戦、あれは素晴らしい試合でした。僕も見ていて涙が出ましたね。やはり人が感動するような試合、それができれば、勝っても負けてもいいんですよ。人が感動するのは、その試合のことだけじゃないんです。その前後があるわけですよ。どれだけ練習してきたか。一日、朝練やって、昼やって、夜もやって、個人能力をアップさせた。そういうことまでやって、南アフリカに最後に逆転した。しかも監督の指示はペナルティキックで3点でいいと言うのに、選手たちがトライを選んだ。選手の自主判断でそういうことができたから、感動するわけですよ。

賀川:ラグビーはあれだけみんなに感動を与えてくれたけれど、それだけの努力を重ねていましたからね。選手の体つきがこれまでと全然違って見えました。やっぱりラグビーのワールドカップで試合をするためには、これくらいの基礎体力がないとだめだということを計算してきっちり練習して、それに選手も耐えたと言うところがすごいわけです。

岡野:新日鉄釜石でやっていた松尾(雄治)とは話をする機会が結構あったんですけど、ラグビーだって考え方はいろいろあった。外国人抜きでやろう、使えるんだから使うべきだ、いろんな声があった。だけど、エディ・ジョーンズが来て、ああいう練習ができたんですよ。クラマーと時代はもう違うけど、ある意味では同じですよ。

賀川:そうですね。それはよく分かります。

岡野:日本人じゃできない。選手が拒否しますよ。エディ・ジョーンズがどれだけ選手の心を把握していたか知りませんけど、結果としてあそこまで出来ているんですから、日本っていうのはやっぱり、まだまだ日本人だけじゃだめなのかな、と思ってしまう。ただ、逆に僕は代表チームの監督を早く日本人にしたいと思っています。彼も、クラブのオーナーになっちゃったからなぁ、岡田くんも。これまた責任が大きいから、クラブのオーナーになると。

まだ一流ではない
「二流の上」なのだ

賀川:私は日本サッカーの先達のことを70人ぐらい「月刊グラン」という雑誌に連載で書いてきましたが「このくにとサッカー」という題でした。まだ「このくにのサッカー」にはなっていないと思ったからです。なぜ「このくにのサッカー」という題じゃないかと言えば、代表チームの監督はまだ日本人では心もとないとみんなが思っているうちは「このくにのサッカー」じゃないんじゃないか、などと余計なことを言いながらやってきたわけです。ただ今回の題は「このくにのサッカー」なんですけどね。ようやくその手前まで来たということです。俊さんはこれまで、強化ということはずっと長くやってこられましたが、女子にまでサッカーは広がりましたよね。

岡野:正直言いましてね、かつては女子がボールを蹴るなんて思ったこともなかったですよ。日本の女子サッカーも、最初僕は「ダイヤモンドサッカー」で第1回の女子選手権をテレビ中継しましたけれどね、8人制でやっていました、雨の中で。あの頃から考えたら大きな進歩ですよ。高校生が随分うまくなった。テレビ中継をやってくれますから、見ていますけど、うまくなっているんですねぇ。もちろん、なでしこもそうです。ただ、学校はいいけれども、その後彼女たちを成長させるのにどういう環境を作るべきか、というところはこれからの問題ですね。佐々木監督には監督を辞めたら、そこをやってほしいと思いますね。
 日本のサッカーは、底辺は随分広がったんですよ。野球のコミッショナーが野球の新人研修会ではっきり言っていましたよね、いま野球人口がものすごく下がっている。それはね、子供が物を投げる動作の検定をみたら分かりますよ。投げることができないんだもの、今の子は。ボールを投げるということを全然やっていないんですね。

賀川:小学校4年生になってスポーツをやる子供は、1980年代からサッカーが50%を越えましたからね。その分野球はどんどん減ったんでしょうけどね。サッカーの方は野球人口をそれだけ食いながら、クラブの下部組織の子供たちも増えてきましたよね。これだけ増えているんだから、アジアで負けたり引き分けたりでなくて、世界でも勝ったり負けたりできるように早くなってほしいと思いますね。

岡野:今のような状況になってからだから、ここ10年ぐらい、日本のサッカーは「二流の上だよ」と言っています。一流の底がようやく見えてきた、しかし一流にはまだなっていない、二流の上です。だからこそ一流に入れるような努力をJリーグ含めてみんなでやらないとアジアで抜かれるよ、と。いまFIFAランキングでアジアの中で3位ですよね(2016年1月現在)。全体だと50何位ですよ。やっぱり、一流というのは30位以内に入らないと。もっともっと選手育成ということを考えないといけませんね。そのためには、代表選手のなかで才能のある者を指導者として育てなきゃだめですよ。厳しい試合を体験してきて、それを自分なりにどう考えて、どう伝えて、さらに良いチームにするためにどうしていくかということが必要です。外国のコーチを呼ぶのでも、自分が代表チームでプレーし、代表チームを指揮したという経験が大事なんです。日本にはそういう指導者がいまいない。こういうことばっかり言っていると嫌がられますけどね。

賀川:嫌がられても何でも、そういうことをみんな知ってもらわないといけませんね。もうちょっと何かが足りないんじゃないかと、いつも思うんですけどね。これは指導者のグループの中で、自分でつかんでもらわないとしょうがないですかね。

岡野:いろんなところを見ているとやっぱり底辺の広がりは着実に進みつつある。ただレベルアップの問題になると直接の担当は技術委員会、ここがもうちょっと燃えないといけない。そしてさらに代表チームがトップであるとする以上、代表チームのあるべき姿というものをもう少し議論してほしいですね。外国の監督に「任せたよ」じゃ、もったいないですよ。

賀川:日本の長いサッカーの歩みを見てきて、1960年によくデットマール・クラマーが来てくれたな、と思いますね。それに尽きるけど、いま来てくれている監督さんがね、彼のようであればいいなといつも思うんですね。

岡野:野津さんがドイツ協会と十分に話をして、ゼップ・ヘルベルガーがクラマーを選んでくれて、しかもクラマーの給料はドイツ協会が全部払ってくれていたんですから。それだけの厚意があったからこそ来てもらえた。本人もやっぱり、それだけの情熱を持って来てくれましたからね。それはラグビーのエディ・ジョーンズと同じでね、やっぱり選手に身近に触れる人の熱意っていうものが大事。日本を変えようと思うとなかなか日本人には難しいんだなぁこれが。外国人の力を借りた方が早いのかもしれない。

賀川:大会の前に選手の心を奮い立たせる言葉とかね。そういうこと一つ一つを考えても、あの人はよくできた人でしたよ。

岡野:そうです。非常に日本人向きだったんです。いい意味で哲学的な言葉を多く知っていましたからね。ラテン語、ギリシャ語ができましたから、強かったですね。だからドイツでは「プロフェッサー」と言われていた。(フランツ・)ベッケンバウアーと話したときも、クラマーのことは非常に高く評価していましたね。たまたま、ブラジルのサンパウロの空港で飛行機待ちに3時間、2人でワインを飲みながらいろんな雑談をしていたんですけど、「日本はデットマールが行ってよかったよな」なんて言っていました。
 最近、何かクラマーが教えたのはパスサッカーだと言っているようですが、違うんですよ。彼が言うのは「パスをするときにはパスをしろ」「ドリブルをするときにはドリブルをしろ」とうことで、パスを念頭に置いていたのではなくて、そのためにどんな基礎技術が必要かということを言ったんでね。パスをするだけが目標のサッカーなんか一つも言っていないですよ。

賀川:クラマーは私の兄の賀川太郎のプレーを評価していた。俊さんも東京のチームで一緒にプレーをしましたね。

京都で少年たちの指導。右から岡野俊一郎、クラマー、宮田孝治、賀川太郎

岡野:僕らは太郎さんを「たーやん」て言うんですけど、お世話になりましたよ。鴘田(ときた)正憲・賀川太郎っていうのはいいコンビでしたね。1947年に最初の天覧試合が明治神宮競技場であって、東西対抗戦が行われて2-2で引き分けた。

賀川:そうでした。2-2でした。

岡野:僕は高校生で見ていました。あの時の鴘田・賀川っていうコンビは強かったなぁ。僕はそのあとの代表チームではご一緒できなかったけど、会社の関係で太郎さんが東京におられた時、都市対抗や国体で「鴘田・賀川」と一緒にやっていたんですよ。

賀川:クラマーが僕に笑いながら、日本代表レベルの古河電工の左サイドが、きりきり舞いにされたと言ってたね。

岡野:トリッククラブというチーム名でしたが、誰もそう言わなかったですよね。「とっくり」って言っていた。呑兵衛ばっかりだったから(笑)。太郎さんとは一緒にプレーしていただいて、前からうまいなぁと思っていましたから、楽しかったですね。サッカーをお辞めになってから岡山の会社に行かれて、僕が岡山へ講演に行ったら、迎えに来て下さって。夜はやっぱり一杯やって楽しかった。

賀川:ここでもとっくりクラブや(笑)。

岡野:2人で飲んで。いや、本当にお世話になったですよ。プレーは見て覚えるものですからね。うまかった、賀川太郎さん。

賀川:鴘田と賀川の2人の間(ま)がおもしろかったね。ちょっとした間がね。

岡野:今のワンツーですよね、鴘田、賀川さんのプレーは。僕は関東の出身ですけどね、プレーは神戸一中の人たちに教わったんですよ。岩谷(俊夫)さんもそのひとりです。岩谷さんはね、1955年ビルマ遠征に行ったとき、竹腰さんが監督兼団長で、岩谷さんがコーチ、それでビルマ、今のミャンマーで、アウン・サン・スタジアム、アウン・サン・スーチーのお父さんの名前ですね、そこで4試合やったんです。1勝2分け1敗でした。そのあと外務省から要請があって、激戦地だったマンダレーへ行ってタイと試合してくれ、と。岩谷さんコーチなのに、僕がセンターに入ると必ず一緒にプレーする。それで随分教えられたし、可愛がってもらった。

賀川:彼はパスが丁寧でした。

岡野:ごちそうにもなりましたよ。「僕らこんなステーキでいいんですか」と言ったら「俊坊、代表なんだから監督とかコーチとかに遠慮する必要はないんだよ」って。

賀川:神戸一中OBとのかかわりが多かったのですね。

岡野:東大でね、シーズンが終わった納め会で文句言ったんですよ。監督もコーチも練習に来たことがない。試合を見て終わったあとに文句言うだけ。そんな監督、コーチなんてないんじゃないですか、と。そしたら「岡野、東大は自分で自分を強くするところだ」と言われて終わりですよ。ああ、そうかとも思いましたけど。だから僕がサッカーを教わったのは関西の人の方が多い。小石川高校で3年の時キャプテンで、戦後初めて、長野で合宿をやったんですよ。食事なんか一汁一菜の粗末なものですけど、先輩のところをマネジャーと歩いて、合宿費用を集めた。そのときに僕は小石川の先輩じゃなくて、神戸一中出身の岡田(吉夫)さんにコーチをお願いしたんです。1週間強烈な合宿をしてもらいました。だから高校でもある意味では僕は神戸一中に育てられたようなものですね。大学でも、それ以降も、岩谷さん、賀川さん、鴘田さん。鴘田・賀川っていうのは酒を飲んでいてもいいコンビでしたよ。

賀川:そうでしたね。うちの兄貴がうれしそうに「岡野が新聞にふたりのペアのことを書いてくれてな」なんて言ってましたよ。東大もね、大正から昭和初期の6連覇のメンバーは神戸一中が多いんですよ。チョウ・ディンの直弟子の連中でね。昭和5年の極東大会のメンバーにも神戸一中が多く入っていたからね。

岡野:東大はその6連覇があったのに、僕は1回だけ、第1回大学選手権で優勝して終わりです。それが東大の最後の優勝ですね。これも新聞を見たら予想では1回戦で負けることになっているんですよ。相手の京都学芸大学は2部から1部へ上がってきたチームで、こっちは1部の最下位。そこの森っていうのが山城高での釜本の指導者ですね。

賀川:森貞雄ですね。サッカーはいろんなところでつながっている。

(2016年1月)


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