このくにのサッカー

岡野 俊一郎 × 賀川 浩

対談風景

対談相手プロフィール

岡野 俊一郎(おかの しゅんいちろう)
(写真左)(写真:ヤナガワゴーッ!)
1931年8月28日、東京都生まれ。東京大学卒業。1965年、日本サッカーリーグの創設に関わり、1993年Jリーグの理事。また、日本サッカー協会では、理事、副会長として2002年FIFAワールドカップ招致に尽力。1998年会長に就任し、大会を成功に導いた。2005年 第1回日本サッカー殿堂入り。2017年2月逝去、享年85。

対談の前に

 岡野俊一郎さんは、30歳の時に日本ユース代表の監督を務めて以来、JFA(日本サッカー協会)にかかわり、代表チームのコーチとしてメキシコ・オリンピック(1968年)の銅メダル獲得、JFA会長として2002年日韓ワールドカップ開催の成功など、日本サッカーの興隆、発展のその時々の当事者として大きな業績を重ねてきた。サッカーだけでなく、JOC(日本オリンピック委員会)、IOC(国際オリンピック委員会)委員となって、日本のオリンピック活動に貢献してきた。84歳の今、公職から離れているが、サッカーとオリンピックという最も大きなスポーツの世界で、日本の存在を高めてきた岡野さんの経験と知識は、日本にとってとても大きな財産と言える。

対談

監督が健さんだから
二つ返事で引き受けた

賀川:俊(しゅん)さん(※岡野氏の愛称)は、高校の時も大学の頃も、サッカーのリーダーだった。JFAの幹部が、そのリーダーシップに目をつけ、東京オリンピックの2年前に、長沼健さんと組んで、30代の若い2人で代表チームの監督、コーチになるよう要請しました。

岡野:その前に、1958年東京で開催された第3回アジア大会で日本はフィリピンに負けたのですよ。0-1で。もう東京オリンピックが決まっているわけですから、「これじゃ困る」と言うので、初の外国人コーチとして、(デットマール・)クラマーが呼ばれたのです。僕は第3回アジアユース大会の代表監督を務めたこともあり、協会の仕事もしていたのですが、竹腰(重丸=当時の強化責任者)さんに呼び出されて「お前、東京オリンピックの日本代表コーチをやれ」と言われました。僕はとっさに聞いたんです。「監督は誰ですか?」。そうしたら「長沼だ」と言われました。それで「やります」と、二つ返事で引き受けたわけです。

賀川:では、別々に話が来たのですか。健さんと2人で呼ばれて行ったわけではないんですね。

岡野:別々です。健さんとは戦後復活した中等学校選手権、今の高校サッカー選手権で、西宮で行われた大会の1回戦で当たって初めて顔を合わせました。広島高師附属中と僕の都立五中(現小石川高校)の対戦を主催の毎日新聞では「事実上の決勝戦」なんて書いてね。とんでもない。前半0-0だったけど、後半5点叩き込まれて0-5で完敗ですよ。今でもその時のFW陣は覚えていますよ。木村(現)、長沼(健)、樽谷(恵三)、太田(喜昭)、これに5点叩き込まれてね。その後、後楽園の競輪場で行われていた都市対抗では、他チームから補強ができたので、健さんが入った古河電工が出ると必ず私を呼んでくれたんです。だから、都市対抗で一緒にプレーして優勝したりしていました。こっちは呑兵衛で、彼は酒飲みませんけど、試合の後にはワイワイやって、気心は十分知っていた。それで「監督は長沼だ」ということで、「じゃあやります」となった。まぁクラマーの提言もあったんでしょうね。とにかく若いのにやらせろということだったんだろうと思います。協会もよく思い切りました。

賀川:僕は野津(謙:当時日本協会会長)さんや川本(泰三:ベルリンオリンピック日本代表、元日本代表監督)さんからいろいろと聞いていて、記事には全く書かなかったけれども、クラマーは「2人にやらせてくれ」と言ったそうですね。それはさすがに慧眼だなと思います。引き受けてからは、雑務から何からものすごく働きましたよね。

岡野:協会自身が財政的にも苦しい時代ですからね。僕は大学を出て、もうサッカーとは関係なしにしようと思っていたんです。やっぱり一応は商人の家の生まれで、後を継がなければなりませんのでね。ところが、協会からユースをやれ、クラマーが来るから今度は代表チームを見ろと、次々に言われたわけです。親はあんまり賛成はしてなかったですね。ただ、国を挙げてのことですから「やれるならやってごらんなさい」程度の応援です。オリンピックの日本代表チームのコーチをやるなんて言っても喜ばないですよ、商人は。それより売り上げを伸ばす方が大事だから。それで、どこまでやれるか分からないけど、とにかくクラマーが基礎を作ってくれたんだから、健さんとそれをフォローしてがんばろうということで引き受けたんです。今振り返ってみると、東京オリンピックのレギュラー11人の内5人が大学生ですよ。横山(謙三)、山口(芳忠)、小城(得達)、杉山(隆一)、釜本(邦茂)。山口なんか19歳で、海外に行くとき両親の許可がないとパスポートをもらえないんですよ。そんな若い人を連れて、随分世界中を回りましたね。健さんが団長で監督、僕がコーチ、通訳兼マネジャー。2人だけで20人から23人のチームを連れて、ソ連、共産圏から西欧、ブラジル、南米、東南アジア、まぁよく旅したものですね。でもあれがあったからチームは強くなりました。武者修行と言うと古い表現ですけど、メキシコで銅メダルを取れたのは、そのおかげです。ソビエトサッカー連盟の協力が非常に大きかった。あれがなかったら銅メダルはなかったと思いますね。

賀川:日ソスポーツ交流というのがありましたからね。お互いの遠征中の移動、宿泊の費用はその国が負担するという。

岡野:おかげでクラマーが提言したように、代表チームが毎年ヨーロッパでの試合を実現できたわけですよ。だから今でも僕はソビエト連盟には本当に感謝していますね。

賀川:シベリアを移動して行く長い旅も、苦にはなったでしょうけど(笑)。

岡野:最初は横浜からナホトカですからね、船で。一晩泊まって陸地が見えたから「あぁソビエトだ!」と言ったら、船員に「あれは三陸です」って言われちゃって(笑)。

賀川:東京オリンピックの後に、日本のすべてのスポーツ団体が一息入れてしまいましたよね。大きなイベントが終わって。そのときにサッカーは次に向けてすばやく動き出したということが大きかったと思います。

クラマーさんからの
4つの提言

岡野:国立での閉会式のあくる日、椿山荘でクラマー一家のフェアウェルパーティーをしました。奥さんと息子が来ていて、その時に彼が「ドイツ語でしゃべりたい、通訳しろ」と言って、全部ドイツ語で4つの提案をしたわけですね。人によっては5つと言いますけど、僕は4つだと思っています。第1は「代表チームは必ず毎年ヨーロッパへ行って強いチームと対戦しろ」。第2が「コーチングシステムをしっかり作れ」。そしてできればユースからトップチームまで同じ人間が責任者になってやりなさい。第3が「総当たりのリーグ戦をやりなさい」。日本ではノックアウト方式の大会が多いけれど、あれでは強いチーム同士の試合が少なすぎる。だからリーグ戦をやりなさい。最後が「芝のグラウンドを維持しなさい」というものでした。我々としてはできるだけその提案に沿うようにしよう、ということで翌年に日本リーグを結成したんです。このときメディアが非常に好意的に扱ってくれました。おかげで次の年にアイスホッケーから連絡が来て、「自分たちもやりたい」「どのようにやったんだ」と聞いてきました。その次の年にはバレー、バスケット、それ以降バドミントン、卓球とほとんどの競技が日本リーグを立ち上げました。やはりクラマーの提言というのは非常に影響力がありました。

賀川:そうですね。日本の全スポーツがそれを踏襲したわけですよね。

岡野:影響はサッカーだけじゃなかったですね。競技団体によってそれぞれ歴史がありますから、伝統というものをそう簡単に壊すわけにはいかない。したがって時間がかかるところも出てきますし、今もって統一されないところもある。だけど、基本的に各チームが総当たりで対戦するリーグ戦がやっぱり大事なんだ、ということは相当徹底して広がったと思いますね。4つの提言のなかで、芝生の維持は難しかったですけど、これは後にJリーグを始めるということを土台にして、芝のグラウンドが一定以上の水準になったと思いますね。
 メキシコ以降は、クラマーに言われていたけれども日本代表は若返りをちょっと怠りましたね。思い切って若返りをしていれば、もう少し早く立ち直ったと思いますがね。その決断ができなかったのが尾を引きました。それで、しばらく低迷してしまった。


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