このくにのサッカー

釜本 邦茂 × 賀川 浩

対談風景

対談相手プロフィール

釜本 邦茂(かまもと くにしげ)
(写真:中島真)
1944年4月15日、京都府生まれ。府立山城高校、早稲田大学を経て、ヤンマー入り。早稲田大学時代は、4年連続関東大学リーグの得点王。JSL(ヤンマー)では、251試合出場、202得点を記録。1968年敢闘賞受賞。得点王7回、アシスト王3回、年間優秀11人賞14回、年間最優秀選手賞7回受賞。様々な前人未到の成績を残す。日本ユース代表として、第4回、第5回アジアユース選手権大会に出場。日本代表として、第18回オリンピック競技大会(1964/東京)、同第19回大会(1968/メキシコシティ/3位)に出場し、メキシコ大会では7得点を挙げ、得点王に輝く。また、第5回アジア競技大会(1966/バンコク/3位)同第6回大会(1970/バンコク/4位)、同第7回大会(1974/テヘラン)にも出場。Aマッチ出場76試合、75得点。1978年、ヤンマーの監督就任。1984年の現役引退まで選手兼監督を続ける。その間、JSL1部リーグ優勝1回、JSLカップ優勝2回を成し遂げる。1991年、Jリーグ入りする松下電器(ガンバ大阪)の監督に就任し、1995年退任。1998年、日本サッカー協会副会長就任。2002年FIFAワールドカップ日本組織委員会理事、2002年強化推進本部長を務め、大会の成功と日本代表の強化に尽力する。1995年、参議院議員選挙初当選。2000年、第二次森内閣において労働総括政務次官を務める。2005年第1回日本サッカー殿堂入り。

対談の前に

 1968年メキシコ五輪の得点王であり、日本代表の銅メダル獲得のヒーローであった釜本邦茂選手について、私は1977年に技術書『サッカー ストライカーの技術と戦術』、80年代に写真集『ストライカーの美学』の出版にかかわった。講談社発行の前者は当時スポーツ写真の取材で使われていたモータードライブによる連続写真で釜本選手の試合中のシュートやヘディングの動作を紹介し、本人の解説を掲載した。若く上り坂にあったメキシコ大会での活躍の後、釜本は肝炎にかかり、70年代の初めまで万全の体調ではなかったが、『サッカー ストライカーの技術と戦術』出版のころは調子も戻っていた。自分の連続写真を私に説明してくれながら、シュートやヘディングの一連の動作や手順にブレがないことを確認し、「どれも全く同じですな」と見つめていたのも懐かしい思い出である。

 今回の対談では、メキシコ五輪の半年前に西ドイツ(当時)の中都市ザールブリュッケンへ単身留学した二か月半について詳しく語ってもらった。このわずかな期間に彼のゴールを奪うためのシュート技術が劇的に変化したことを考えてのことである。

 アマチュアであった釜本は、ドイツのトッププロとの試合で伸びたのではない。短期間の留学で大変革を遂げることができたのはなぜか。その謎を垣間見ることもできる。

対談

高校3年間で50得点

賀川 浩(写真:中島真)

賀川:まずはサッカーとの出会いから。太秦小学校では、もうサッカーやってた?

釜本:太秦小学校でやったと言っても、4年生から6年生の冬だけですよ。

賀川:冬だけ? 夏は野球?

釜本:11月ぐらいから学校の授業でサッカーをして、最後にクラス対抗試合があったり、先生と試合をしたりという程度でした。

賀川:サッカーの試合で点を取った記憶はある?

釜本:ありますよ。みんながわーっとボールの所に行くのを、僕は行かなかった。あんな所行ってもしょうがない、ゴール前で待ってたほうがいいということでね。

賀川:太秦小学校には池田(璋也)先生がいたでしょう。お姉さんの組の担任ですね。僕は池田さんとは京都のクラブチームで一緒にやっていて、きれいな形でボールを蹴れる非常に上手な選手やったね。彼は「小学生のころから、釜本は上手だった」と言っていました。その頃は背はまだ伸びていなかった?

釜本:そんなに小さいほうじゃなかったですよ。6年生の頃に並んだら、後ろにまだ4人ぐらい大きいのがいましたけどね。

賀川:中1でレギュラーになった?

釜本:秋からです。5月頃「サッカーもうやめた」って言って練習行かずに帰ったことがあったんです。それで近所で野球していると、二村(昭雄)さんや長岡(義一)さんが来て「お前なにしとるんや、明日から練習来い」と。それでまた翌日からサッカー部の練習に行った。

賀川:中学校の頃はソフトボールもやってた?

釜本:山に行って木を切ってきてバット作ってやってましたね。よく飛ばしましたよ。

賀川:ソフトボールの真似事でもホームランを打ったと。その頃から物を「叩く」ということを掴んでいたかもわからんね。中学校では1年から試合に出て、1年上に二村たちがいた。

釜本:二村さん、長岡さんですね。だから蜂ヶ岡中学は強かったんですよ。嘉楽中学と蜂ヶ岡が強かったんですが、そのメンバーがどっちもが山城高校に来たので、山城が強くなっていったんです。親父が「嵯峨野高校に行け」って言うから「いや、サッカーしたいから山城に行く」ともめていると、姉さんが「本人がサッカーやりたいっていうんなら、お父さんええやないの、やらせば」と言ってくれた。

賀川:僕は釜本が高校1年の時の全国選手権で試合しているのを見た。僕は東京勤務だったけど、正月の選手権を見るために帰省していて、岩谷(俊夫)に「ちょっと見てほしいコがいる」と言われて行ったら山城が試合をしていた。スコアも何も覚えてない。ただ釜本邦茂がね、ボールを受けるときに、足を上げて止める格好を見たのを覚えている。ぬーっと立っててね、後ろから来たボールを止めた。

釜本:高校では1年生で国体で優勝して、2年生の時は高校選手権で決勝まで行って修道高校に負けた。

賀川:2年生の時は、どんどん点を取っていたけど、二村がケガしたからね。二村がいい球を出してくれていたのに、決勝の修道戦の時は本当に気の毒だった。大会後に山城高校にインタビューすると思っていたのに、森(孝慈)の修道が勝って、監督の下村(幸男)のインタビューをすることになった。あのころはもう前を向いてガッと出れば点を取れるという感じではあったね。

釜本:そうですね。あの当時は今で言ったらトップ下にいたんですよ。二村さんが前にいて、そこに当てて、前に出たらボールがピュッと出てきて、止めてシュート打ったらええというパターンですよ。

賀川:あの頃はシュートはほとんど右足やったね。

釜本:ほとんど右。

賀川:自分でも随分点を取った記憶はあるでしょう?

釜本:よく取ったと思いますよ。高校3年間で50点ぐらい入れてるかな。ペレみたいにカウントしてたらよかったな。

賀川: 15、16の一番伸び盛りの頃やね。その頃はチームの練習以外に何か心がけてしていた?

釜本:いや、何もしていない。学校行ってボール蹴るだけですよ。山城高校はグラウンドが小さくて、小さなエリアしかサッカーができませんでしたから、小さいプレーをしていたというのがよかったかもしれませんね。体に合わせて大きなサッカーをするということじゃなくて。僕がよく言うのはね、大きい奴が小さいことやらないかんということ。高い奴は高いことの練習ばっかりしてたらだめ。ほっといても勝てるんだから。足の速い奴は足の速いことばっかり出したら良くならない、テクニックを身につけないと。

賀川:選手は自分の一番いいところを出したがって、折り合いをつけるということはなかなかできないからね。

型を持て

賀川:お父さんが剣道をやっていましたね。「型を持て」ていうのはお父さんの影響が強かった?

釜本 邦茂氏(写真:中島真)

釜本:そうですね。大学に入った頃に手紙が来ても、だいたい同じことが書いてありましたね。「型を持て。サッカーでも一緒だ」と。一対一に強くならないとだめだから、一対一になったときに「こうなったら絶対勝てる」という型を作る。宮本武蔵も柳生十兵衛も自分の型を持っている、サッカーの選手でも同じだろう。ボールを持って抜いたり取られないようにする型を身に付けないとだめだ、ということですよ。

賀川:(スタンリー・)マシューズ流のフェイントの後、右足アウトで右外へかわして右足でシュートという型もあった。

釜本:あの頃は外国のサッカーの選手の映像を見る機会というのは世紀の一戦だけでしたね。イングランドとハンガリーの試合の(フェレンツ・)プスカシュとか、マシューズとか。それまで、フェイントっていうのは切り返しばかりだったので、ゴール前で切り返したら左足で打つことになるけど、僕は右足で打ちたい。マシューズのような抜き方をしたら右足で打てる。それからですよ、練習したのは。キュッと抜いて、右足でシュートを打つ。そうすると自然に右45度という角度になるんです。それで、どこへ蹴ったら一番ええのか? と言えば、左のポストの下へ打てばいいんだなと。

賀川:左足はいつごろから蹴るようになった?

釜本:左は蹴れなかったですよ。右で打つ型を相手が覚えますよね。だから左足でシュートを打たないかん。それで左手が使えるようになれば左足も上手くなるかなと左手の箸の使い方を練習した。

賀川:山城に大型の日本の将来のストライカーが出てきて、どこへ進学するんやろうと思ってたら、早稲田やと。工藤(孝一)さんのことは伝説的に厳しい練習ばっかりやという話を聞いてたけども、まぁあまりこまごまやらない人やから、川本(泰三)さんも「それはええでしょう」と。それから東京からいろんな噂が届いて「最近はヘディングが上手くなったらしい」「足よりも頭で取ってるほうが多いやないか」なんていう話が出て、川本さんは自分がヘディングしないもんやから、「ふーん、ヘディングか」なんて不満そうな顔してた。そういえば高校の時はあんまりヘディングはしてなかったね。

釜本:そうですね。それが、早稲田の1年のときに試合に出て、ヘディングで3点入れたんですよ。そしたら翌日の新聞に、「釜本っていうのは非常にヘディングが強い」というような記事が出て、それを見て「俺はヘディングなんか練習もしてないのにヘディングが強いって言われるんだったら、まじめにヘディングの練習しようか」と思って、それから練習をしたんですよ。新聞の記事のおかげですよ。それまではヘディング練習なんてしたことがなかった。その後、(デットマール・)クラマーが来てね、「ヘディングはこうするんだ」とかやりだしたでしょ、ペンデルボール使って。今はペンデルなんて、どこにも置いてませんね。

賀川:あれを使う練習は一人でもやれるから、効果があるのに。

釜本:あの当時早稲田にはペンデルボールがあったし、代表チームの合宿に行ったら、夜は体育館でヘディングばかりで、どういう格好が一番高く飛び上がれるとかいう研究をしたんですよ。

賀川:それはペンデルがあったからできた?

釜本:そう。ボール持ってもらってヘディングするわけにいかないし。本当にヘディングが自分の一つの大きな武器だと思えるようになったのは練習したから。

賀川:ヘディングについてはいくらでも言いたいことあるやろうね。

釜本:「こっちからボール来て、ここに当たったらボールはこっちに行くじゃないか、首振らなくていい」って選手に言うんですけど。

賀川:最近の選手は振りすぎるからね。ヘディングなんて本当に自分で会得しなければしょうがないもんね。

釜本:どれだけ高く飛び上がれるとかね。それで空中で静止しようと思ったら、腹筋とか背筋とか鍛えなきゃいけないんですよ。

賀川:うまくなると自然に空中で長いこと止まって、ちゃんと叩けるようになるしね。そうなるためには、自分でやる以外しょうがない。

釜本:「ヘディングの時は先に飛んだらあかん、後から飛べ。先に自分が飛んで後ろから当たられたらバランス崩れる」と言うんだけど、そういうのは練習してないとわからないです。

賀川:釜本邦茂についてみんないろいろ書いているけども、ヘディングの話が案外少なくてね。昔に比べればみんなヘディングは上手になったけども、ヘディングのパスでも釜本は、下に落とすだけでなく、ちゃんと遠い方への折り返しもできた。そういう選手は今、ほとんどいないからね。だから攻撃の幅が狭いよね。

釜本:そうですね。代表の試合なんかでもそうです。杉山(隆一)さんから僕のところへ来る、ここでそのままヘディングでシュートできたらいいけど、できなかったら落として合わせるっていうのは一つのパターンでしたからね。

賀川:日本代表の攻めのパターンだったね。

釜本:メキシコ(五輪)のゴールがその形でしょ。

賀川:ブラジルに0-1でリードされたところから同点にしたのがそうやね。あの時のセンターバックは強かったからね。あと何分というところで渡辺(正)が交代で入ってきて、クロスをちゃんと落として渡辺が入れたんやね。

釜本:今の若い180cmぐらいある選手なんて、もっとヘディングの練習せなあかん。

賀川:今は、これだけ上背のある選手がいるのにね。上背を活かしてちゃんとヘディングすれば攻撃もいろんなバリエーションができるからね。ケビン・キーガンなんか体は小さかったけどヘディングが上手くて、ヘディングのパスが上手かったからね。

釜本:そうなんです。自分でやらんとしょうがないんです。

賀川:早稲田を出て、ヤンマーに入るときには「ヤンマーのような弱いチーム行ったら釜本がつぶれる」と言われたけど、そのヤンマーが関西の代表的なチームになって、日本のトップのチームになって、日本サッカーリーグの歴史に残るようになったね。
 釜本がヤンマーに決まった日は面白いことがあってね、遠征に行く前で、川本さんと岩谷が僕の会社に来て、岩谷が「釜本がヤンマーに決まった」と。それで川本さんが「お前らが自分のとこの特ダネにしたいんなら書いたらええ、君らに任せる」と。産経と毎日だけで出したら、それはものすごい特ダネやけどね。

釜本:ひんしゅく買いますね。

賀川:そう。あいつら内輪で、なにやってるねんって言われる。僕が一番心配したのは、特ダネをとり逃したら釜本を恨む記者が出てくること。「釜本はなんでうちに言わんかったんや」ってなると、これが一番問題になるからね、「もう全紙に連絡しましょう」ということにしたんですよ。で、岩谷が朝日、毎日、読売、共同に電話して、僕が各スポーツ新聞に電話した。他紙の記者たちは、あの頃、ヤンマーがどれだけのニュースになる選手を取ったかということを、まだあまりよくわかってなかったやろうね。

北海道の熊にはなりたくない

賀川:クラマーが亡くなる前にクラマーの家に行った時、みんなからの寄せ書きのなかにあった「北海道の熊にはならない」の話をクラマーは話してましたよ。

釜本:クラマーさんが僕に言ったのは、ブラジルの選手はボールを受けた瞬間にパッともう前を向いている。「1」で前を向ける。お前は「1、2、3」だと。その「1、2、3」をやっていたら、お前はいつまでも北海道の熊のようにどんくさい男だ、せめて「1、2」で受けるようにしろと言われた。そんなん言われてもできませんやん。

賀川:クラマーに敏捷になれと言われたわけやね。大人になってから「敏捷になれ」って言ってもなりようがないわけだけど、それは心がけた?

釜本 邦茂氏(写真:中島真)

釜本:そりゃそうですね。例えば自分がボールを受けたときに自分で全部一人でやろうと考えると、体が大きいから時間がかかる。だから自分がボールを受けた瞬間にゴールに背中を向けているときは、必ず味方の選手に返す。ヤンマーだとネルソン(吉村)だとか、代表だと輝(宮本輝紀)さんとかに後ろに来てキープしてもらって、もう一回自分が前を向いたときに足元へくれ、と。ボールの受けもアウトサイドとか、足の裏とかを使って、受けた時には半分前を向いている状態を作るっていうことをね、やっぱり自分でやるしかないもんね。

賀川:そういうことやな。

釜本:僕はペレにはなれない。66年に「これはあかん、これは次元が違う」って思った。しかしエウゼビオを見て、「あぁエウゼビオみたいな選手になりたい」と思って、1968年の1月にヤンマーから1.FCザールブリュッケンへ行かせてもらった時、ベンフィカが強い頃のフィルムがいっぱいあったので、そればかり見てたね。

賀川:釜本をドイツへ単身留学させるという企画は、ヤンマー入社のときに「それくらい釜本のことを大事に思っていいる」ということで、川本・山岡(浩二郎:当時のヤンマーサッカー部長)両首脳が考えた話で、入社して適当な時期にヨーロッパに出そうということだった。日本代表の監督・コーチたちも「一人で出して大丈夫ですか」って言うくらい前例のないことだったけど、それがよかったね。身体を休めることにもなっただろうし。

釜本:向こうでは休んでましたよ。

賀川:大学1年からずっと東京オリンピックにかけてきて、東京オリンピックが終わったら日本代表と大学の試合があって、67年の日韓戦の激戦も経験して、ずっと休みがなかったから、よかったかもね。

釜本:ザールブリュッケンでは、移籍のとか登録の問題とかで試合に出場できないということになって、子供とばかりサッカーやってたんですよ。それが案外よかったのかもしれませんね。そんなハードなところじゃなくて18歳、19歳の地域のユースに入れてもらってね。

賀川:ドイツ人は18、19って言っても結構大きいからな。

釜本:そう、大人とかわらないですよ。そこで一番前(FW)やっててもボールなんて出てきませんから、(ユップ・)デアヴァルさんに「前をやっててもボールが出てきません。ボール出すのは、みんな自分が目立とうとしとるやつばかりやから」と話したら、「わかった。お前は中盤やれ。中盤でパスを出しながら、点を取りに行け」っていう話になって。それで中盤っていうのはこういう仕事するんだな、とわかるようになった。自分がトップにいるときにこういうふうに動いてくれたらボール出しやすいなとか、もらいやすいなとか。

賀川:昼はユースと練習して、夜には日本にないようなサッカーの映像を見て、それがよかったんやね。

釜本:そう。ブンデスリーガのチームで試合したのは1回だけですよ。シーズン後半戦が始まる前に練習試合でやって2-2で引き分けたんですよ。そこで僕は2点目を入れた。そしたらザールブリュッケンの会長さんが飛んできてね、「すぐ移籍してくれ」って。「いやオリンピックがあるから駄目だ」って言ったら、「オリンピックが終わったらすぐ来てくれ」って。

賀川:釜本の留学についてクラマーに相談したら、「デアヴァルは元々FWだったから釜本にもいいだろう」という話をしていた。クラマーの帰国のとき東京の羽田に見送りに行って、「3か月ぐらいの留学で大丈夫か?」と僕が半信半疑で言ったら、クラマーは妙に自信たっぷりに「帰って来た釜本を見てくれ、絶対によくなってるから」と言ってたね。

釜本:メキシコ五輪に行く2週間くらい前に、デアヴァルに「体重計に乗れ」って言われた。そのときは87kgか88kg。3食食べて、夜はデアヴァルと酒飲みに行ってね、自分のベストから3kgぐらいオーバーしていた。そしたら「今から水とジャガイモは禁止。野菜と肉だけだ。それにパンを一切れ」。レストランに「芋出すな」と言うんですよ。85kgが一番いいのに、84kgまで体重落とさせるんです、2週間で。「なんで85kgじゃないのか?」って言ったら「お前飛行機の中で飯食うやろ」と。

賀川:飛行機の食事も全部考えてね、2週間、毎日自転車に乗せられたんやね。あの人自転車好きやからね。

釜本:裏山をね、ずっと走らされた。デアヴァルさんは途中で帰って、下で待ってるんです。帰ってきたら、インターバルですよ。途中で「ちょっとトイレ行きたい」って言ったら「練習始まる前にトイレは行っておけ」って怒られてね。

賀川:メキシコで日本代表と合流した時、平木隆三コーチが、「ドイツから来た釜本が一番コンディションがいい」と思ったらしい。ドイツから帰ってきたら、全く変わってたもんね。腰抜かすかというぐらい。ターンしてシュートするのが、それまで「1、2、3」でやってたのがヒュッと行くようになった。ドイツに行かせた甲斐があったという感じやったね。クラマーをはじめ、ドイツのコーチは個人指導もできるからすごいよね。日本の監督は戦術はやっても、個人指導まではなかなかできないもんね。

釜本:僕も覚えているのはクラマーが個人的に何を言ってくれたかということですよね。シュートをバーンと外したら、「あぁあれは月へと向かって飛んで行ったか」とか。クラマーがやってくれたように、これからの日本のサッカーは個人を作らなあかんのです。ヨーロッパの連中なんて、1980年に僕が世界選抜に入ってやらしてもらったときなんて練習したのは前の夜に1回ですよ。それで大観衆の中で試合したら、ちゃんとできるんですよ。お互いが全部わかってるんですよ。イタリアもスペインもいれば、ドイツもイングランドもいる。後半にデアヴァルから「お前行け」って言われたときに考えたのはね、最初にボールをもらったら出してくれたやつに必ず返そうということ。自分一人でやったら、「あいつにボール出しても返してこなかった」ってことで次からボール出すのやめってことになりかねないから、顔が合って、パッと出してくれたらダイレクトで返して、前に走ればこれだけで次から出してくれる。

賀川:ましてそれが(ヨハン・)クライフならね。

釜本:そう。クライフ、僕がヘディングで競り合いしたときにね、クライフがレフェリーに文句言ったら赤いカードが出て退場。だから一緒にやったのは10分ぐらいです。

賀川:1980年のノウカンプスタジアムでのバルセロナFC創立80周年記念試合で、バルサを相手に世界選抜に入って試合をしたのも、やはりオリンピック得点王の実績ですよ。クライフは来日してJFAの役員さんから代表の強化策を訪ねられた時、「カマモトを代表に復帰させればいいでしょう」と言ったそうですよ。

2人で一所懸命蹴りあった

賀川:ちょっと時代は戻りますが、最初にネルソン吉村に会った時、どんな感じでしたか?

釜本:華奢で細くて大丈夫か、と思いましたね。だけどボール触らしたらそこそこできるから、今のヤンマーで自分のところにボール出すのはネルソンしかいないな、と。
 ブラジル育ちで、ボールのタッチとかボールの止め方とか、僕が持っていないこと、今までクラマーに教わったものと違うことを彼はできるわけですよ。例えば胸でボールを止めるにしても、クラマーなら胸を張りだして止めろ、落ちてくるボールをコントロールしろ、と言うけど、ネルソンはピタリと止めるからね、「どうやるねん」と聞いたら、「ボール当たる瞬間に息を吸い込んでパッと膨らますだけや」と。それまで日本の選手とは胸での止め方が全く違っていた。
 彼のサッカーのスタイルがどういうものかを見極めないと僕のところにボールは出てこないから、2人で一所懸命蹴りあった。ボールを受ける格好はどうで、どういう格好で蹴るのかというのを見ないといつ走ったらいいのかわからない。例えば彼が左の方へドリブルをし始めたら、僕は徐々に徐々に後ろへ下がって相手DFを引き連れてきて、DFの背後のスペースを作る。ネルソンは左足じゃ絶対蹴りませんからね、パッと切り返した瞬間ですよね、僕がヒュッと走ったらそこへ出してくれる。そればかり2人でやっていた。

賀川:浮き球が多かった。

釜本:そうですね。東洋工業とやったときに、ハーフラインからボールリフティングしながらシュートまで持っていったんです。こいつはほんまにすごいことできる、と感心したことがありましたね。

賀川:ネルソンは日本に来てから体格もよくなったしね。尼崎のグラウンドに行ったとき、安達(貞至)さんが「ネルソン、お前シューズ持ってないのか」って言ったらネルソンがポケットから2つに折ったシューズを出した。「お前そんなけったいなシューズしか持ってないのか、賀川さんに買ってもらえ」って安達さんがからかった。僕が「何を言うとるねん、これがブラジルのシューズで、へなへなやから足と一体になるんや、君らみたいに固いシューズ履いとるんちゃうねん」と説明したけど、ポケットからシューズを出したのには笑ったね。彼によってブラジルのサッカーの面白さがわかった。

釜本:リフティングとか、本当にうまかったですね。今よくやっているような頭で止めたりするはしりですよ、彼が。アウトサイドでボールリフティングしたり、インサイドだとか腿だとか胸だとか全部使いながら一人でよくやってました。それに性格もよかったしね。

賀川:それはもうなによりやね。ブラジルからたくさん選手が日本に入れたんは、最初に来たネルソンの性格がよかったからやね。あれがけったいなん来てたら、もうブラジル人はあかんってみんな思ったやろうけどね。ネルソンとのコンビが活躍して天皇杯でも優勝して、それから病気をしたね。あのときはしばらくしんどかった?

釜本:ヤンマーの成績が前期2位で終わって、順位も下がっているときで、退院してグラウンドを歩くことから始めましたが、全然だめでしたね。もうちょっとトレーニングしてから出たらよかったね。頭の中はいい時のイメージがあって、それをやろうとするから、当たられるはずがないのにガーンと当たられて捻挫したり。26、7の歳のころは、点も入れたけど自分のコンディションとしては非常に悪かったですね。28歳ぐらいからです、本当に元に戻ったと思ったのは。だから日本代表に呼ばれた時に「今回は堪忍してくれ」と言って行かなかったこともありましたね。28歳から32歳の、プレイングマネージャーやる前くらいまでが一番面白かったかな。その4年間ぐらいは体も動くし、自分の考えてることができるようになってきていた。

今でも腹筋やってますよ

賀川 浩(写真:中島真)

賀川:引退するころには体がきつかった?

釜本:まぁアキレス腱も2回も切ってね、あれでだめだと思ったのは確かですね。しかし、怪我してやめるってのではなく、もう一回治してちゃんとやって終えたらそれでいいかなと。それが日産との天皇杯決勝(1984年元旦)ですね。「これ以上の舞台はもうない」と考えた。
 代表辞めるときはいろんなことを言われましたけど、モスクワのオリンピックをボイコットして、次のオリンピックとなるとずいぶん先の話になるでしょ。「それはもう無理だなぁ」と思ったのと、「次の人たちがやったほうがいいんじゃないか」ということで代表は降りましたが、「まだできる」と思っていました。それだったら自分のチームだけでやろうということで山岡(浩二郎)さんから「監督もどうや」という話があった時に、「プレイングマネージャーでやります」ということになりました。ヤンマーに入って、弱いチームをみんなと一緒にあそこまで強くしたけど、まぁ自分の好きなようにやらせてもらいましたね。

賀川:監督であるけれどもプレーヤーとしては前に残って点を取るのが仕事だ、ということで、ちゃんと点も取ったね。

釜本:ネルソンやジョージ小林たちがいなくなって、このチームを強くするには選手を入れ替えないかんということになって、優勝経験をした選手ということで山野(孝義・孝明)兄弟や坪田(和美)が入った。「試合やるには勝たなきゃ」とやつらは考えますからね。

賀川:そのころ杉山と一緒に試合見てたんや。そしたら「普通は歳を取ると持久力があっても瞬発力が衰えるはずやのに、釜本はこの年になったらちゃんと相手より上に飛んでヘディングしている」って言っていたね。元々体が強かったんやね。

釜本:体の強さはありましたね。基本は体幹が強かったということです。今の選手にも言うんですけど、腹筋と背筋と腕立て伏せはやった方がいいですよ。今の選手にも「これが必要だと思ったらやれ」と言うんです。何回したかなんて誰も見てなくても、自分が納得するまでやればいい。僕はやってきた。今でもテレビ見ながら腹筋やってますよ。

賀川:うちの会社の近くにあった桜橋の渡辺病院の先生に聞いたら、「釜本の数値を見てもどれが強いと言うわけじゃない、結局バランスがいい」と言ってましたね。

釜本:いいドクターがいたからよかったんですよ。ケガしてもすぐ直してくれる。「1年に2回、私のところに来なさい、半シーズンできる体を作ってあげるから」と。

賀川:そういうドクターは大事やね。

釜本:そうですね。でもドクターとはよくケンカもしましたよ。「先生、『選手に3日休め』と言うんだったら私でもできる。合宿してる最中に『3日休め』って言ったらもう合宿終わります」って。

賀川:クラマーもよく言ってたよね、「試合に出しながら、練習させながら治さないといかん。それがチームドクターの仕事なんだ」と。

釜本:東京オリンピック終わってからヨーロッパに行ったとき、靭帯が痛くて休んでたんですよ。そしたらクラマーさんが「どうした」って言うから「内側の靭帯が痛い」って言うと、「インサイドキックで蹴るから痛い、アウトサイドで蹴れば何も痛いことはないじゃないか。練習出てこい」って。それで僕も監督なってから「捻挫しました」という選手がいたら、「どっち捻挫したんや」「右です」「なら、左足でケンケンしてグラウンド回っとけ」って言うんです。すると「治りました。練習のほうが楽です」って。

共催でもいいじゃない!

賀川:2002年のワールドカップ招致のとき、日韓でやると決まった次の日に、長沼健さんが「紛糾していろんな意見は出たけども、釜本が、『ワールドカップやれるならそれでいいでしょう』と言ってまとまった」と言ってたね。

釜本:僕はサッカー協会の立場ではなく、国会議員の招致議連の一員として行ってたんですよ。僕と衛藤(征士郎)さんと宮澤(喜一)さんがいて、長沼さんが「総理のお考えは?」と言われたときに宮澤さんが、「私の立場では日本と韓国が共同開催することには何も反対することはない。近くて遠い国なんだから、これをやることによってさらに近くなるということになるでしょう」というようなことをおっしゃったのは覚えています。「お前どう思う?」と言われて僕は「以前は16チームでやっていたのが今では32チームになって、共催ということは16チームが日本に来るんだからそれでいいでしょう。日本の子どもがワールドカップを見れますよ。ヨーロッパや南米の人にとっては日本海なんてブラジルとウルグアイが河をはさんで向いあっているようなもんです。ただ決勝をするか開会式をするかということでは、条件としては決勝を日本でやるということを言った方がいい」というようなことを言った覚えはありますね。

ゴール前30m。自分で考える

賀川:いろんな経験を経て、今まで日本のサッカーを作るのに大きな功績があったわけやけど、日本のサッカーにどうなってほしい?

釜本:2015年には世界のベスト10に入るということを、日本サッカー協会は掲げた(※2005年のJFA2005年宣言)けど、今の日本の世界ランキングなんて50何位ですよ。それは国際試合をやっていないだとか、ワールドカップの成績だとかっていう話かも知れませんが、実際に日本のサッカーの力は低下してますよね。見てても面白くない。
 最後のゴール前30mにタレントがいるかどうかですよ。この30mをこれからどうするかということが、日本が上に上がっていくための一番大事なポイントになるんです。それにはいいものを持っている選手の「いいもの」を引き出していくということを日本の指導者がやらないと、個性のある選手が出て来ないですよ。「こういうことを身につけるには、こいつの持っている長所を止めておいてでも他の事やらさなあかん」じゃないと思うんですよ。それではみんな同じ選手になるだけだと僕は思います。
 18歳ぐらいまでに戦術だとかボールの止め方だとかをきちっとやっておいて「ここから先は自分で考えなさい」。今の人は自分で考えてやるっていうことがないですよね。僕の場合は16歳のときにクラマーさんが「何が大事か」ということを教えてくれた。それを高校で、大学で、大勢のいい先輩がいたおかげで実践ができたけども、やるべきことは自分一人でやったんです。今の若い人は言われなきゃやらん、という状況を「言われなくてもやる」にしないといけない。次の監督さん、会長さんは何を言うか楽しみにしているんですけども、そこに向かって進んでいかなければだめだと思いますね。

賀川:高い目標を掲げてね。そのためにはプレーヤーの一人ひとりが「自分で工夫して自分でやる」となるようにせないかんね。

釜本:そういうことをしなきゃいけないと思いますよ。もう一つの問題はね、選手数の増加とそれに対する指導者といった環境ですね。僕らの頃は山城高校のサッカー部でも25、6人しかいなかった。今は百何十人いますよ。

賀川:関西学院なんかも200人以上。神戸大学でも100人以上いる。練習も大変やろうけどね。その中でいい選手は自分で練習する方法を覚えてくれたらいいわけやね。

釜本:それしかないと思いますよね。それにS級のライセンスを持っている人が今では400人くらいいるわけですよ。「なのに、その中でJリーグの監督してるのが何人いる? 半分以上は外国人やないか」っていうことをよく言うんですよ。J2は最近日本の監督さんが多くなりましたけどね。S級の制度を作ってから20年経っているんだから日本の代表チームの監督も、そろそろ日本人に任したらいいんじゃないかって言うんですけどね。

釜本 邦茂氏(写真右)(写真:中島真)

賀川:『月刊グラン』というグランパスの広報誌で連載を書くのに「このくにとサッカー」という題で書いてきたけど、日本代表チームの監督がいつも日本人で安心できる時代になればね「このくにのサッカー」になると思うんですよ。

釜本:だから、まだ「このくにのサッカー」ではないんですよ。代表の監督に各国の監督が来て、日本の下のレベルの人たちはいったいどこをめざしていくんや、ということになりますよね。その国のサッカーをどうするかと考えるときには、大事なことだと思いますね。

(2016年2月)


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