このくにのサッカー

石井 幹子 × 賀川 浩

対談風景

対談相手プロフィール

石井 幹子(いしい もとこ)
(写真右)(写真:ヤナガワゴーッ!)
東京生まれ。東京芸術大学を卒業後、フィンランド、ドイツの照明設計事務所勤務を経て、石井幹子デザイン事務所を設立。都市照明からライトオブジェや光のパフォーマンスまで、幅広い光の領域を開拓する日本の照明デザイナーの第一人者。日本のみならず、アメリカ、ヨーロッパなど世界で活躍し、オペラや野外能の照明にも取り組む。父はベルリン・オリンピック サッカー日本代表主将の竹内悌三。

対談の前に

 1936年のベルリン・オリンピックで日本代表が強豪スウェーデンに逆転勝ちしたことは、日本の戦前のサッカー界のエポックメイキングな大事件だった。その日本代表チームの主将が竹内悌三さん。シベリアに抑留され、異国の地で若くして亡くなった竹内さんの長女で、いま照明という世界で日本の第一人者といえる石井幹子さんにベルリンのヒーローについて語っていただいた。

対談

父は「ベルリンの奇跡」日本代表

賀川:ベルリン・オリンピックは第二次大戦前の1936年ですから、私が小学校の時のことです。竹内悌三さんと一緒に代表メンバーだった右近徳太郎さんというのが私の中学校の先輩で、僕は右近さんに直接ボールの蹴り方を教えてもらったこともありました。
 ベルリンの先輩というと色々な思い出があって、今日も同席してくれている竹之内響介さん(『ベルリンの奇跡』著者)がベルリンのことを書きたいと言ってきたときには「日本のサッカーにとっての大事件だから、ぜひちゃんと調べて書いてくれ」、ということでいろんな話をしました。出来上がってみて、「そうか、キャプテンの竹内さんの娘さんを主人公にしたか。うまくできたな」と思って喜んでいたんです。

石井:大変光栄でございます。残念ながら、当時はまだ女子サッカーはなかったので、ボールを蹴った経験はございませんが、もっと早くに女子サッカーがあったらよかったのにと思っております。ただ、これは父のご縁だと思いますが、Jリーグの理事をさせていただいたこともございました。

賀川:そうでしたね。

石井:一年間に色々なテレビ局で放映されたJリーグの試合を見て表彰するという審査員も何年かさせていただきまして、当時、今もまぁあんまりよくない所が多いのですが、ナイター照明の設備が悪くてですね、必ず選手の影がX状に出ましてね。Xを描きながら、Xを伴いながら選手が動いていくという映像的にも大変見にくいナイター照明だったんですね。影のあり方で「これはどこの競技場だわ」ってわかるくらい、ひどい照明だったんです。ですから「もっとナイター照明をよくしないといけない」というのを色々なところで申し上げまして、岡野俊一郎先生が父と同じ小石川高校の後輩でいらしたということもあって何度か対談をさせていただいたり、ご講演をお願いしたりしたこともございました。岡野先生がおっしゃるには父の竹内悌三のチームが日本選手でナイターを経験した初めてのチームじゃないかって。

賀川:そうですね、ベルリンの帰りにスイスのチューリッヒで試合をしたんですよ。

石井:そうなんですね。グラスホッパーというチームと試合をして16-0で負けた、と。そのとき初めて日本の選手がナイターを?

賀川:そのときが初めてでしょうね。

石井:そのときの照明って一体どんなのだっただろうな、なんて想像もしたんですよ。おそらくプリミティブな照明でしょうね。夜に試合ができるって大変驚いたということらしいんですが、初めてのナイターのせいであんなに大差で負けたんじゃないか、というふうに岡野さんは言っておられました(笑)。父がその後ヨーロッパでいろんな試合を見て、それをサッカー協会の……。

賀川:ええ、機関誌にずっと載せておられましたね。

石井:そうですよね。それを東大の浅見(俊雄)先生が覚えてらして、コピーしていただいたものを、今も大事にしております。

賀川:あれはもう何度も読ませていただきました。竹腰重丸さんも残ってあちらこちら回っておられたし、竹内さんはイングランドのプロの試合なんかもご覧になっていたんです。イングランドのプロと言っても試合によっては「それほど感心するすべきものもない」という意見も書いておられました。ベルリンの一人ひとりが自分のサッカーを自分で切り開いた先輩たちですが、あの頃はテキストもあまりない頃で、我々にも非常に参考になったんですよ。

石井:竹之内さんの本を拝見してびっくりしましたけど、日本ではそれまで、キーパーは、試合のときにぼこぼこにやられていたのに、そういうことをしてはいけないということがベルリンに行って初めてわかったんですね(笑)。

賀川:そうなんです(笑)。それまではね、日本ではゴールキーパーはパンチングに行くと横からぶつかられたり、足を蹴られたりしていましてね。早稲田のゴールキーパーがあの時のレギュラーだったんですが、向こうに着いて、ドイツで練習試合をやってみるとゴールキーパーにチャージしてはいけないということで、それがゴールキーパーの大活躍のもとになるんです。最も活躍した選手の中にゴールキーパーが3名入っているんですよね。ゴールキーパーの体に相手が触れないから自分の実力が発揮できたんでしょうね。

石井:しかし、本を読んでサッカーをみんなで勉強したというのは大変なことだったでしょうね。

賀川:そうですよね。その前は慶應でも『フスバル』というドイツのオットー・ネルツが書いた膨大なテキストを翻訳して、それは慶應のサッカー部のバイブルでテキストですね。そういうふうにみんな自分で勉強したんですね。あの頃は外国の本を読んで自分のものにするというのも一つの創作みたいなものですからね。

石井:本当にそうですね。本を読んでイメージを膨らませて、「こうでもない、ああでもない」と言っていろいろ考えながらやられていたんでしょうね。

賀川:東大が先に始めて、旧制高校から良い選手がどんどん入って来るという供給源があったものですから盛んになって、その後早稲田が上がってきて、戦前の、ベルリンが終わってから戦争が始まるまでは慶應が少し台頭する、そういう形で東大、早稲田、慶應と関東は強くなったんですね。関西はその頃あまり強くなくて、関西学院と神戸大がたまに関東のチームと張り合ったぐらいであとは歯が立たなかったんです。そういう先輩たちの話は、まぁ何を聞いてもベルリンになるんですよ(笑)

先人たちの苦労と「工夫」

石井:当時は土埃でもうもうとした、ひどいサッカー場でみなさん泥まみれになってやっていらしたわけですよね。

賀川:特に関東はね、関東ローム層で冬に風が吹いたら土煙がわぁっと舞い上がるグラウンドでしたからね。それでもまぁ曲がりなりにも、今の国立競技場、もとの明治神宮の競技場は一応芝が張ってあったんです。

石井:わたくしが見た記憶だと、はげちょろけと言いますか…

賀川:もうはげちょろけですよね(笑)。

石井:今のサッカー場は恵まれていますよね。

賀川:ベルリンの先輩が、今の選手がボールをちゃんと止められずにはじくのを見たら「なんでこんないい条件のグラウンドでボールをはじくんだ」って文句言うだろうと思いますけどね。本当に悪い条件の中で自分たちで工夫して、あるレベルまで達してベルリンへ行って、練習試合では普通のクラブチームに全然歯が立たなくて負けていたんですけど、大一番の対スウェーデン戦で逆転勝ちという好勝負が残るわけなんです。それは自分の持っているものを全部出しきったということらしいんですね。

石井:それと、はるばる海を渡って大陸を汽車で横断して行ったという大変さで意気込みも違っていたでしょうね。

賀川:ええ、シベリア鉄道で何日もかかって。イルクーツクのバイカル湖のところを半日走っても湖のところをまだ走っていて、後で地図を見たらほんのちょっとしか進んでいなくて「ロシアって広い国やなぁっていうのがわかった」という笑い話がありましたけどね。

石井:竹之内さんの本の中でも、汽車が停車したときにみんなたまりかねて降りてボールを蹴ったという描写もありましたけど、目に浮かぶようですね。

賀川:随分余裕を持って行きましたから、向こうに着いて1か月近く時間がありました。それで練習試合をみっちりやって、センターバックが下がるサードバックシステムという新しいヨーロッパのシステムを取り入れた。関東の大学リーグではすでにやっているチームもあったんですけど、あのときに本物のサードバックシステムのサッカーを見て、「これをやらないといくらでも点を取られる」ということになった。東大のセンターバックの種田孝一さんはサードバックシステムのセンターバックに適任の方でしたから、新しい守り方も成功したんですね。

石井:しかし、それをぱっと切り替えられたというのは大変なことですよね。

賀川:みんな自分で工夫してやっているから「あぁこれか」ということで、すぐわかるわけですよね。元々、早稲田、慶應にはそれぞれ、東大にも手島さんというセンターフォワードの強くて上手い人がいましたから、それにマークをつける(サードバックシステムになる)というのが一つの形になっていたんですね。

石井:そういうのを吸収されて、皆さん帰国されて、ただそのあとすぐ戦争になってしまうので、サッカーの体験は活かされなかったんでしょうか。

賀川:戦後はベルリンの先輩に追いつけ追い越せということでやっていて、1954年ぐらいの試合で初めてベルリンに追いついたとか新聞に載ったりしましたね。それぐらいベルリンというのは一つの目標だったんですよ。私はその中でも川本泰三という早稲田の名選手とはサッカーだけではなくて魚釣りまで一緒に行ったりしました。山の中を歩きながらベルリンの話を聞いていましたので、ベルリンの先輩たち一人ひとりのことが当たり前のように頭に入ったりしておりました。竹内さんはモクさんというあだ名だったそうですね。フルバックと言えばどちらかというと防ぐ方ですから、がんばるタイプの選手が多いんですけども、モクさんは非常にスマートで頭脳的な上手なフルバックだったそうです。キャプテンをされるだけあって性格は几帳面だったと聞いています。

石井:几帳面というのは私も聞いておりまして、父が残した手帳があるんですが、そこに小さい細かい字でびっしり書いてあってですね、それを見た時は「あぁこういう性格の人だったのかなぁ」と思いましたね。

賀川:そうですか。モクさんーお父さまの結婚式は東京会館で。

石井:1937年にたいへん盛大な式を。

賀川:川本泰三さんは「ベルリンのときのブレザーを着て出席して、えらい立派な披露宴でごちそうを食べた」と言っていましたけどね。

石井:そうでいらっしゃいましたか。父と母はお見合いで結婚したんですけども、父は一目で気に入ってしまったらしいんです。母の方は女学校を出て初めてのお見合いだったので、相手に「ぜひ」と言われたらお断りしては失礼では、ということで(笑)。母自身もたいへん良縁だと思ったらしいんです。帝大を出てスポーツマンで、たいへん魅力的で、それですぐ結婚して、わたくしが翌年生まれました。

賀川:僕は残念ながらお父様にはとうとうお目にかからずじまいでした。その頃はまだ子どもでしたが、戦後に誰がシベリアから帰って来ただとか、右近さんがブーゲンビルで戦病死されたとか、いろいろ話が入ってきた中で、キャプテンの竹内さんはシベリアで亡くなったとうかがったのを覚えています。

石井:亡くなってから4年ほどたってから知らされました。

賀川:あのころの先輩たちはサッカーの情報が少ない中で、ものすごく自分たちで工夫された。竹内さん自身もベルリン大会のあと40日ぐらいヨーロッパにおられたのかな?色々見て帰られて、あと協会の仕事も熱心にやっておられたんですよね。

石井:小さい頃、日曜日に母と試合を見に行ったのは記憶にございます。弟が二人おりますが、男の子が生まれたら「これはもうサッカーを仕込むんだ」と大変楽しみにして、男の子はサッカーを仕込んでスパルタ教育と、女の子は大事に甘やかして育てるという大変偏見に満ちた教育で(笑)。たいへんかわいがられていた記憶はございます。

賀川:ご兄弟はサッカーを?

石井:二人とも(東京教育大)附属でサッカーをやっておりました。中学、高校とやっていて、二人とも国体に出たりいたしましたが、サッカーは好きではなかったのか才能がなかったのか大学ではいたしませんでしたけども。

手弁当の海外遠征

石井:賀川先生はどういうきっかけでサッカーをお始めになったんですか?

賀川:神戸の雲中(うんちゅう)小学校でサッカーを始めました。神戸は昔から神戸一中と御影師範が強くて、その御影師範の卒業生が神戸市内の学校の先生になるわけですね。それでサッカーの好きな先生の行った学校でサッカーが盛んになって、戦前からいくつかの小学校でサッカーをしていて、カナディアンスクールとか外国人の学校と試合をしたりもしていました。

石井:なるほど、国際親善試合みたいなことが神戸ではできたのですね。

賀川:神戸一中というのは大正のころから強くて、東大に行った高山忠雄さんというのが私たちの20歳ぐらい上の大先輩で、神戸高校の校長を20年ほどやられたんです。校長自らユニフォームに着替えて生徒を教えるものですからね、「校長が教えたらだめですよ。恐れ入って『ハァ。ハァ』って聞くばっかりであかんでしょう」なんて笑っていたんですけどね、それぐらい熱心な大先生でした。1930年の極東大会にもお父様と一緒に出場されておられます。

石井:そうですか。それはどういう大会だったんですか?

賀川:極東大会というのはアメリカのYMCAからフィリピンに派遣されていた人が提唱して、フィリピンと日本と中華民国が「対抗戦をやろう」ということで始まり、1930年の第9回大会は東京で行われました。日本サッカー協会ができて、そろそろロサンゼルス・オリンピックの話なんかもあって、サッカーもオリンピックに出場したいなと思うようになっていたころです。1930年の大会はひとつの節目で、フィリピンには7-0で勝って、中華民国と3-3で引き分けたんです。

石井:中華民国は強かったんですね。

賀川:中華民国は昔からサッカーが盛んでしたから、当時の日本にとっては一つの目標だったんですね。1930年当時は東大が一番強くて、関学のフルバックとゴールキーパーが加わったぐらいであとはほとんど東大だったんです。そのときに一番若いメンバーとしてお父様は入られたんです。日本が初めて中華民国と対等に戦って、フィリピンに勝って、1勝1引き分けになって、「どちらが勝つかもう一度決戦をやろう」ということになったけども、時間がなくて結局できなかったんです。それで両方が1位になりましてね。すでに陸上競技などはアジアのなかでもレベルが上になっていたけども、サッカーは「いつやっても中国に負けるじゃないか」と言われていたころに、それまでの目標であった中華民国と引き分けたことで日本のサッカーの格が上がったんです。それで体協のなかでも「そろそろオリンピックに出してもいいんじゃないか。とにかく東アジアで1位なんだから」ということになったんです。

石井:しかしサッカーは人数も多いですから、その人たちがみんなオリンピックに、ということになったら大変だったでしょうね。

賀川:サッカーは最低でも16人ぐらいを出さないといけないからお金もかかるんですね。ベルリンのときもたくさん募金がありましたね。当時の募金表をみたら選手の名前も書いてありますからね。

石井:記念の手拭いを作って売ったということを聞いたことがありますね。

賀川:音楽会をやってその入場料収入を寄付したというのもありますね。

石井:音楽会とはおしゃれなことをやったものですね。

賀川:音楽会ではだいぶお金が集まっているんですけど、よく考えたら音楽会の経費はサッカー関係者が自分で持っているんですよ。だから売上げ=利益なんですね(笑)。竹腰さんはヨーロッパの農業政策の視察という目的もあって、東大から公費で行くわけです。もちろん代表チームのコーチでついて行くけど、自分は公費をもらっているから、代表チームの旅費を竹腰さんは寄付しているわけですよ。僕が調べたのでは60円、当時のお金ではものすごい大金ですよ。代表チームであっても、皆自分で寄付をしてから行くわけですからまったくのアマチュアですよね。

石井:オリンピックに行くので竹内の家からサッカー協会に随分寄付をしたのよ、ということは小さい頃に母から聞いたことがあります。

賀川:皆、自分のお金で、死にもの狂いの試合をしてあれだけがんばったんですね。今、その話をしても誰もピンと来ないんですけどね。試合をしたら収入になると思っている人がたくさんいますからね。

石井:本当に手弁当で行ったわけですよね。

スタジアムという祝祭

石井:賀川先生は戦後、サッカーの取材で、世界のいろいろなサッカー場をご覧になっているでしょう?

賀川:いろいろ見てきました。ドイツ人なんて、生真面目そうな顔をしているけど、サッカー場に行くとワイワイ騒いで羽目を外すんです。

石井:そうですね。人が変わったようになりますね。

賀川:女性もそこでは大騒ぎできる、というものがスタジアムですよね。そのスタジアムをどれだけ見やすくするのか、観客席との間をどうするとか、スタンドの傾斜をどうするとかいろいろありますけど、元々は騒ぐところだ、という感じですよね。最初に行ったときにそれを見てびっくりしましたね。

石井:わたくしはJリーグの理事をさせていただいてサッカーとのご縁ができました。それで海外に出張に行ったりするときに、そこのサッカー場に試合を見に行くと言いますと、まず地元の方が「女性一人で行くなんてとんでもない。必ず男性と一緒に行かないと騒ぎに巻き込まれるかもしれないから」って言われましたね。それでパリのスタジアムに日本の企業の方に声をかけて大勢で参りました。そうすると本当に女性の観客というのはほとんどいなくてですね、男の人たちばかりで大騒ぎして、楽しいんだけどもちょっと怖い感じもいたしました。一方で、イギリスのロンドンから汽車で1時間ほど行った小さなスタジアムでアーセナルの試合を見たんですが、それは本当に家族ぐるみでおじいちゃんおばあちゃんが孫を連れてきたりしていました。客席の1階レベルのところに子どもの遊び場がありましてね。おばあちゃんと子どもたちはそこで遊んでいて、寒い時期だったのでその隣の部屋に熱い紅茶とクッキーがサービスされている。おじいちゃんは客席でみんなでワイワイやっている、これがサッカーなんだなぁということに大変感激いたしました。

賀川:1974年に西ドイツでワールドカップがあったときに、ドイツの新聞でもスタンドに女性だけで見に来ているのは珍しいと写真を撮ったり、尼僧が見に来ているからと撮ったりしたぐらいです。それが40年ほど前の話で、それからどんどん変化しましたね。

石井:日本はJリーグの発足以来、女性の観客がすごく多いので、海外の選手たちに言わせると「日本で試合をすると勘が狂う」。なぜかと言うと「『キャー』っていう女性の高い声がいっぱい入るので苦手だ」とイタリアの選手が言ったそうなんです。

賀川:そうですね。「うぉー」っていう男の声じゃないですからね(笑)

石井:日本は男性と女性とが連れだっておしゃれに観戦したりしますね。あれは日本独特のサッカー観戦ではないかなと思いましたけれども、なかなか皆さんお行儀のいい観客ですね。

賀川:日本の観客は行儀はいいですね。ヨーロッパのサッカーでも、国際試合が増えたのと、それぞれの国でワールドカップをやったりヨーロッパ選手権をやったりしたことでちょっと雰囲気が変わってきましたね。(マンチェスター・)ユナイテッドみたいな大きいクラブだとだいぶ女性のファンもいますけど、それでも普段のリーグ戦なんてほとんど男のファンばかりでしたからね。

石井:先日、フランクフルトで大きな照明の見本市があって、日本の企業を3社ほどプロデュースして展示をしたのですけれども、たまたまその時に街で食事をしましたら、ヨーロッパチャンピオンズリーグのミュンヘンの試合があって、もうレストラン中が大騒ぎで(笑)、そのうちみんなでビールやリンゴ酒で乾杯が始まってですね、「わーわー」「キャーキャー」大騒ぎでレストラン中が盛り上がって、とてもいい雰囲気で楽しかったですね。

賀川:2週に1回のお祭り、という感じがサッカーの感覚ですよね。サッカーの場合は野球みたいに毎日やるわけじゃないですから。ミュンヘンぐらいの大きい街でも、どこかのチームが来て、バイエルン・ミュンヘンのホームゲームがあるとなると、朝から街全体がそわそわして、お祭りの感じですよね。

石井:週末は自分たちがサッカーをする日だ、もしくはみんながスポーツをする日だというあの雰囲気は、これがスポーツ先進国だという気がいたしましたね。
 本当にこのところ色々変な事件が起きたりしますと、もっと若い人たちが身近にサッカーを、と思います。若い人たちだけじゃないですね、仕事の質がこの10年ぐらいでものすごく変わりましたよね。眼だけ使って仕事をするような仕事が多くなりましたので、それこそ週末に体全身を使ってスポーツをしないと、人間なにかおかしくなってくるんじゃないか、と思うんです。Jリーグが百年構想を掲げてらっしゃいますけどあれは着々と進んでいることなんでしょうか。

賀川:百年構想を目指して、徐々には進んでいますね。最近は単に広い場所でのフットボールだけではなしに体育館の中のフットサルとかが浸透して、よかったなあと思っているんです。ただ、先日もセルジオ越後と話をしていたんですが、セルジオは「盛んになったけど、まだまだやる場所が少ないじゃないか」と言ってますね。

石井:そうですよね。ドイツで鉄道に乗って移動しますとね、本当に大きなグラウンドが何面も見えるんですね。必ず小さな町にも4面ぐらいあって、そこでみんな遊んでる、スポーツをやっている、ボールを蹴っている景色がいたるところにあるんですよね。日本は小さな町でも市民会館みたいなものがたくさんできましたでしょう? それと同じぐらいスポーツをできるような場所があってもいいんじゃないかなと思います。

賀川:そうですね。国体があるたびに、県庁所在地の町が中心になってそこにスポーツセンターがだいたいできるんですけどね。それでも数は少ないですね。

石井:そういえば確かに地方の小さな町に行っても、立派なプールがあったり、体育館があったりでびっくりすることがあるんですけど、そういうことでできているわけなんですね。

賀川:日本の地方の自治体というのは、国のやっているのを見習えばいい、というわけで国のスポーツセンターを見習うんですね。そうすると、補助金をもらって、国体でこんなのを作ったとなると次のところも同じのを作るわけですから、ほとんど同じようになるわけです。野球やサッカーがこれだけ盛んなんだから、プールや体育館より多く作ってもいいわけなんだけどそれはしないんですね。

神戸の街と光

石井:外国では小さい子どもが路地でボールを蹴っていたりするでしょう。ところが日本は小さな道といってもどこも車が通るものだから子どもが遊ぶことができないんですね。ですからもっと小学校の校庭を開放してくれたりすれば。このあたりにも区が管理している公園が結構あるんですね。そこがなんだか気持ちが悪い、暗い場所になっていましてね。わたくしはそういうところに夜もスポーツできるような明るい照明を置いて、他には何も置かないようにしたら、そこで体操したり縄跳びしたりできるんじゃないかなと思いますね。

賀川:公園っていうと滑り台を作ったり、なにか遊具を置かないといかんと思うから。

石井:そうなんです。何か必ず物を作りますでしょう。物で事故がおこると閉鎖になったりするんですね。

賀川:神戸の地震のときに、そのことを嫌というほど感じました。公園があっても、滑り台があったりするとヘリコプターが降りられないんですね。芝生の広っぱだけにしておいてくれれば、ああいう大災害があってもね、何にでも使えるんですよね。

石井:お話が照明のことになりますとね、今ご承知のようにLEDが非常に発達して、すべてLEDになると言われているんですけども、LEDのいいところは発光する光源が非常に小さいんですね。それこそ1mmの何分の1というところから光が出ますので、非常に配光制御がしやすいんです。私は、屋外競技場の照明も早くLEDに変わったらいいんじゃないかと思っています。夜煌々とついていて「カーテンを閉めても眠れない」とか近隣から苦情が出ますが、LED化しますと極めて配光制御がやりやすいのでグラウンドだけにピシッと光を当てて、他に光が漏れないというような設計もできるんですね。電気の使用量が10分の1ぐらいになりますし、そういうことをぜひ推進されて、省エネにもなって、なおかつ夜スポーツが無料でできる場所がもっと増えるとよいんじゃないかと思うんです。

賀川:そうですね。光さえあれば何でもできるわけですからね。大人はまぁ自分の体を維持するために歩いたり走ったりすればいいわけですけど、子どもは色んな運動をして体の機能を伸ばしていかないかんわけですからね。それこそ明かりがついていれば夜でもやれます。

石井:神戸の震災の前に、明石海峡大橋やオリエンタルホテルの照明をさせていただいていたものですから、震災が起きてからすぐ調査に行きましてね。本当に大変な状況を拝見いたしまして、何かわたくしどもできることはないかというので、神戸の照明の復興計画をボランティアで作りました。当時貝原さんが知事、笹山さんが市長でいらして、お二人に贈呈いたしましてね、皆を元気にするには「光で街を作っていく」、「光のイベントをやる」ということをぜひお取り上げ下さいということを申し上げたようないきさつもございます。神戸は本当に天然に夜景の美しいところで、ああいう斜面があると一杯光が見えますのできれいですね。

父からつながる北欧への道

賀川:そもそも照明、光の道に進まれるきっかけというのは何かあったんですか。

石井:わたくしは父が早く亡くなりましたのでね、大人になったら自立して、お金を稼いで生きていかなければならないということは小さい頃から思っていました。わたくしどもが中学の頃ですと女性で仕事があるのは学校の先生と女医さん、看護婦さん、保母さん、あとは作家ですね。そのぐらいしか女性ができる仕事ってなかったと思います。

賀川:デザイナーなんていうのは戦後の話ですね。

石井:一体何になったらいいかなと考えました時に、たまたま工業デザインというのが日本に入ってきて、大きな展覧会があったりしましてね。小さい頃、絵がうまいとか言われたことと、理科が好きだったもので、「工業デザインっていうのはきっと私ぴったりの仕事かもしれない」と子ども心にそう思いましてね。工業デザイナーになるにはどうしたらいいかを調べましたら東京藝大と千葉大の2つがあると言われて。わたくしは父が亡くなってから母方の祖父の庇護のもとに育ったのですけれど、祖父が「国立に入れるんだったら大学に行ってもいいけど、私立の学費は出してやらん」と(笑)。一所懸命勉強してなんとか藝大に入りました。たまたま卒業してから務めた有名な東京のデザイン事務所で、照明器具をデザインするという機会がありましてね、自分がデザインした試作品に明かりが灯ったとき大変感激しましてね。あぁこの光でこの色が見えて形がわかって、光ってすばらしいなって。光をもっと勉強したいなと思ったんですが、日本ですと、電源の設計とかいわゆる理工学部的な分野だったんです。それで多分、父がスウェーデン戦に勝ったなんていうことも小さい時から聞いていたためだと思いますけれど、「北欧」という国々があるということを知っていたのと、当時は北欧のデザインっていうのがモダンでシンプルできれいなデザインで非常に世界的に有名になっていた時代なので、「北欧に行って勉強しよう」と思って。

賀川:それでフィンランドに行かれたんですね。

石井:なんとかスカラシップを取りたいと思っていろいろ調べたんですけれど、当時北欧にはまったくなかったんです。1ドルが360円の時代だし、500ドルしか持ち出せないし、しかも自分にはお金がありませんでしたし、母親に頼むというのもあり得ないと思ったので、向こうで仕事をして収入を得ながら勉強できないかと思いまして、フィンランドの有名な照明器具メーカーのデザイン室長のところに手紙を書いて自分の作品を送って、それで雇ってもらいましてね。女性のデザイナーだったんですが、その人のアシスタントとしてフィンランドで照明器具の基本を学びました。そのあとデュッセルドルフのドイツの照明設計事務所に移りまして、そこがとてもいい待遇で雇ってくれました。当時ドイツは復興期で建物もいっぱい建ちましたので、教会の照明の仕事とか、オペラ劇場の照明ですとかね、朝から晩まで沢山働いていろんな体験をさせてもらいました。当時デザインした照明器具で、まだドイツで残っているものもあります。ヴュルツブルグというドイツ中部の街の劇場のホワイエのシャンデリアが、この間たまたまそこに行きましたらまだ点灯しておりました。

賀川:向こうは物持ちがいいですからね。

石井:日本に帰って来てからは、「照明デザインってなに?」と言われる中で、どうやって仕事を作るかということでちょっと途方に暮れましたけど、大阪万博の前だったものですから、いろんなパビリオンの仕事を建築家の方々からいただいてスタートすることができました。

国全体が覚えている「日本戦」

賀川:1951年にヘルシンボリというスウェーデンのチームが来て、東京で試合をしたときに花を持って行かれたんですね。

石井:そうなんです! あれはねぇ、わたくしと北欧との最初の出会いだったんです。どの選手も大きくてですね、近寄ったら怖いような大きな人たちばっかりで、その選手たちがにこーっと顔中で笑っているような感じで迎えてくれましてね、びっくりいたしました。竹之内さんの本の冒頭にその話が書いてありましてね、本を主人に渡しましたら、それを読んでびっくりなんですが、「この試合見てた」って言うんですよ! 中学生で! 当時教育大の附属に通っていたのですが、「どうして中学生があんな試合に行けたの?」と聞きましたら、附属もサッカーが盛んだったんですね、それで「初めて外国の選手が来る、みんなで行こうぜ」と、10何人で電車に乗って国立競技場まで来たんですって。主人は「小さい女の子が花をあげたのを覚えている」と(笑)びっくりしていましたね。

賀川:あの時はね、日本のスポーツ界としても、ヨーロッパからチームが来るというのは、あらゆるスポーツの中で戦後初めてのことだったんで随分客も入りましたね。僕はその試合は見に行かなかったんですけどね、ヘルシンボリは関西でも試合をして、何人かの選手にはインタビューしましたから、あのチームは非常に懐かしい。あの試合には日本代表でうちの兄貴も出ていましてね、賀川太郎といって私より2年上で、戦後のあの頃、1940年代から50年代の初めにかけて代表にいました。まだ国際試合のほとんどない頃ですね。

石井:どうしてあのチームが来ることになったんですか?

賀川:ヘルシンボリが国内リーグでいい成績をあげて「海外に行こう。アジアに行こう」となって、「とにかく1936年にベルリンでスウェーデンは日本に負けたんだ、日本へ行ってやっつけてやろう」と。スウェーデンは1950年のワールドカップでは3位になっていて、1948年のロンドン・オリンピックでも優勝していますしね。強いんですよ。第二次世界大戦中は中立国ですから、被害を受けていないので戦後ずっと強かったわけです。日本へ来て最初に京都で試合をしたんですが、その試合の前の記者会見の時に「われわれはベルリンの借りを返しに来た」と言うんですね(笑)

石井:まぁそうですか(笑)。しかし当時は遠路はるばる船で?

賀川:いや、これは飛行機です。もう戦後ですからね。

石井:ちょうどヘルシンキにいたときに私の師であり、上司だったリーサ・ヨハンソン・パッペさんと親友の有名なテキスタイルのデザイナーが二人展をヘルシンボリの街でやるというので誘ってくださって、1週間ほどいたことがあります。なんだか冬の寒くて暗い時でしたけど、いつも真っ暗、みたいな感じでしたね。

賀川:私らは夏の大会のある時ですから、一番過ごしやすい時にしか北欧に行ったことがないんですけどね(笑)。ヘルシンボリが来て京都で記者会見をした時、日本代表には川本泰三というベルリン五輪のスウェーデン戦で点を決めた選手がいて、その話を向こうのテグナーという団長が聞いて「You are bad boy」と(笑)。彼に点を入れられて、スウェーデンの負けになったわけですからね。日本がスウェーデンに勝ったということは日本ではサッカー界だけの話ですけど、スウェーデンの国内では国全体で覚えている話ですから。

石井:サッカーの話となるとヨーロッパは国民の関心がものすごく高いですもんね。

賀川:1992年にスウェーデンにヨーロッパ選手権の取材に行って、ついでに1936年のことを色々聞いて帰ろうと思ったんです。日本では新聞記者でも「へぇ。1936年にベルリンで勝ったんですか?」というような調子ですけど、向こうは負けたっていう話を皆知っているんです。「日本人が走り回っているので、テレビでは『ヤパーナ、ヤパーナ、ヤパーナ』(スウェーデン語で日本人)と言うのでそのアナウンサーは『ヤパーナ』という名前がついた」とかね。それと「スウェーデン代表チームは試合後にストックホルムの駅で降りると、何を言われるかわからないから、一つ前の駅で降りて解散した」とかね。そんな話がいっぱい残っているんです。それをたいていの若い人が知っているんですね。親父に聞いたとか、おじさんに聞いたとか。

石井:それはもう大事件だったんでしょうね。

賀川:大事件だったんです。湯川(秀樹)さんが1949年にノーベル賞を受賞した時に、向こうの記者が「ベルリンのオリンピックのことを知っているか」と。湯川さんはサッカーが盛んだった京都大学でサッカーも嫌いじゃなかったから、ボールを出されて茶目っ気でヘディングをするような写真が出たことがありましてね。とにかく向こうにとっては大事件だったからみんな覚えているんですよね。日本はもうサッカーの記者連中でも全然わかってなかったりして。

「スター気取り」は気になります

賀川:元Jリーグ理事として、今の日本のサッカーのことはどんなふうに思われますか?

石井:選手がスター気取りになっているのは、気になります。もっと自分の実力をちゃんと見てですね、それで切磋琢磨してやってもらいたいですね。サポーターの皆さんが応援して下さるのはいいんですけど、やっぱり選手を甘やかさないでですね、ダメなプレーはダメと言ってもらいたいですね。もっと厳しくしないと、選手が「これでいいんだ」みたいに思っちゃうといけない。ただサッカーをやる若い人たちが大変多くなって、子どもたちが一所懸命やっているのは大変ありがたいことだし、いいことだと思います。野球でイチロー選手が出てきたみたいに、スター選手が出てくるとそのスポーツに国民的な関心が高まりますので、何とか東京オリンピックあたりの時にサッカー界からスターが一人とは言わず2、3人出てくるといいなと思っています。女子選手も。

賀川:釜本が出て、メキシコで銅メダルを取ったときは、アマチュアだったけどもちょっと盛んになりましたからね。

石井:すそ野が広がると言うか、サッカーをやる人が増えるということはすごくいいですね。地方に行きますとね、例えば新潟なんかはすごくサッカーが人気で、静岡も当然ですね。地方でサッカーが盛んになるのは、文化的にも経済的にも非常に大事なことではないでしょうか。

賀川:サッカーをする子どもがどんどん増えて、それぞれの地域からよい選手が出てくれれば楽しいですよね。

石井:そうですよね。ラグビーがこのところたいへん脚光を浴びていますが、それもわたくしはサッカーにとっても非常にいいことではないか、と。いろんなスポーツがあって、スポーツをいつも楽しめる、見るのも楽しいし自分でやっても楽しいというふうになるとすごく生活も豊かになるし、コンピュータばかりにかじりついている人を育てないためにも必要ではないかと思います。

賀川:今の大学でラグビーをやっている選手の多くは、おそらく中学校のときにサッカーを経験しているでしょうね。それで選んで「こっちに行こう」と思ってみたりね。この頃のラグビーは昔と違ってキックがみんな上手になりました。ラグビーもやはりフットボールですからね、レベルが上がっていいことだなぁと思っているんです。サッカーの選手もたまにはラグビーをやってみて、スクラムみたいな、ああいうごちゃごちゃしたのもね、体をぶつけてやってみるのも悪くはありませんね。

サッカーを語る「幸福」

石井:90を越されても、本当にいろいろなことをきちっと覚えていらして、その健康法についてうかがいたいんです。何か気を付けていらっしゃることはありますでしょうか?

賀川:一つには、昔からこんな小さい体でああいう激しいスポーツをやっていたこと。うちの兄貴は健康優良児みたいなもので戦前から体も丈夫で、そういうのに追いついて行くためには節制しないと練習についていけないぐらいの弱い体でしたからね。それと大人になってからは、アルコールがあんまり強くないせいもあって、特攻隊に行っても「もうどっちみち死ぬんやからアルコールはいらんよ」と、毎日一本ずつ酒は来るけど整備兵にやって、飲まない習慣がずっと続いていて、煙草は昔から喫いませんので。それからあとは新聞社に入って不規則を絵に描いたような仕事をやっていましたけどね。午前2時に家に帰って10時に起きてまた会社に行くわけですが、それはそれで一つの決まりに慣れればいいわけですから。そんなに無理に節制したこともないし、何もないですけど。

石井:もう本当に自然体で。

賀川:まぁ、おかげさまで。ここに来る途中に東京の桜を見ましたけど、1945年に海州という北朝鮮の飛行場のところで桜を見て、向こうは4月よりちょっと遅いのかな、その時は飛行機乗りですから「桜はこれで見納めだな」と思っていたら、72年も桜を見させてもらって、こうやって皆さんのお話を聞いて、サッカーのことを今でも語らしてもらっていることはありがたいことですね。

(2016年4月)


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